例えどれだけ僕たちが変わってしまったとしても、それでもこの目の前に広がる空だけは変わることがない。
 そう信じていた。
 
 今思えば、いつかはこうなるってわかっていたんだろう。
 でも、もし駄目になってしまうとしても、そうなる前に駆け抜けてしまえばいいと、そう思っていたんだ。
 僕は何も知らなかった。
 陸上競技じゃあるまいし、ゴールテープを切った瞬間に試合が終わるわけじゃない。駆け抜けた後も生活は続いてしまうんだってことすら、僕は知らなかったんだ。
 ドラマで見るような感動の物語の後にだって、描かれていない日常の生活は存在するはずで――それはきっと、死ぬまで続いていく。そんなことすら、僕は知らずに生きていたんだ。
 
 目的地を知らない鈍行列車は、それでも止まることを許されずに、今日も走っていく。
 行き着くところなんてどこにもないってわかっていて、それでも走り続けるって、なんだかひどく救いのない話だと思う。
 そして、これは、そういう話だ。






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 紅く焼けた空の下、いつもは白く無機質なコンクリートの群れが、陽の光の影響か、まるで誰かの血で紅く染まった絨毯のように見える屋上の地面の上で、俺と妹の小毬は二人仲良く寝そべっていた。お互い口をきくこともなく――といっても小毬は寝ているみたいだった――時間はとても静かに流れている。といってもそれは、砂時計をじっと見つめている時の様なじれったいものではなく、いつまでもこの瞬間が続けばいいと、心の底から願ってやまない穏やかな午後のひとときだった。

「おにーちゃん」
「ん? なんだ、小毬。起きてたのか」
「んー、さっきまで、ねてた」

 寝ぼけているせいか、たどたどしい口調の、見かけ以上に幼く感じさせる声で呼びかける小毬の言葉が、心地よく耳に染みこんでいく。
 視線を空から横に移し変えると、恥ずかしそうにこりこりとこめかみを掻いている妹の姿が、近くにいるはずなのにどこか遠くに感じられた。不安になった俺は、必死にその姿に追いすがろうと手を伸ばし、

「こまりは、ここにいるよ」

 ぎゅっと握られた暖かさに、不覚にも涙が零れ落ちそうになって、慌てて顔を反対側へと背けてやり過ごす。
 突然そっぽを向いたりして、小毬は傷つかないだろうかと少し不安になったが、幸い妹は気にした様子もなく、ふふっと楽しそうに笑った。

「何かいいことでもあったのか?」
「んー、ちょっとちがう」

 不思議な物言いに訝しさを感じた俺は、再び小毬のほうへと顔を向ける。
 と、こちらをじっと覗きこんでいた瞳の奥に、赤い太陽が映っていて――それを見つめているうちに湧き上がってきた不安が、心を掻き乱していく。

「わるいことが、なかったの」
「……?」

 悪いことが、なかった?
 真意を測りかね、黙って続きを待つことにする。

「あ、うん、んっとね、わるいゆめをみたの。でもそれはゆめで、だからわるいことは、ほんとうはなくって……あれ?」
「ああ、わかった。そういうことか。それで、どんな夢?」
「おにーちゃんがいなくなっちゃうゆめ」



 頭の中に、ひどく不愉快なノイズが絶えず鳴り響いている。
 ザザザ、ザザザ、と液晶に映った砂嵐のようなイメージが脳にこびり付いて離れない。



「僕がいなくなる夢?」
「ちがうよ、おにーちゃんがいなくなるゆめ」
「俺がいなくなる夢?」
「そう、おにーちゃんがいなくなるゆめ」



 何かが決定的におかしいはずなのに、僕はそれに気づくことができず、だから俺はおかしいはずの何かを徹底的に探そうと足掻き、もがき苦しみ、やたらズキズキと痛むこめかみの奥をグッと押さえながら呻いてみてもその決定的な何かは見つからなかった。


 
「それは、どんな夢だった?」
「んとね……わすれちゃった」
「そう、忘れてしまったんだ?」
「うん、わすれちゃったの」
「じゃあ仕方ないね」
「うん、しかたないね」
「それじゃ、また明日」
「うん、またあしたね、おにーちゃん」
 





 ***






 いつか、誰かが言っていた。

 ”本当にそれでいいのか”
 ”俺は馬鹿だからよくわからない、でも馬鹿なりに考えて、それがお前らのためになるとはどうしても思えない”
 
 今思えば、あれが引き返せる最後のターニング・ポイントだったのだろう。
 もしあそこで踏みとどまっていたならば――そんな仮定には、もはやまるで意味がなかった。
 結局のところ僕はそれらの言葉を背中で一蹴し、部屋を飛び出したのだから。
 
 そういえば、あれは誰の言葉だったのだろう?
 ……思い出せなかった。
 
 そういえば、あれはいつのことだったのだろう?
 ……思い出せなかった。

 覚えているのは、鏡の前でぼーっとしていたらいつの間にか見知らぬ誰かがそこに映っていたことと、知らないはずなのにその誰かに妙な親近感を覚えたことぐらいだった。それから僕と見知らぬ誰かは、足元に転がり落ちていたヘアカラーの空き缶を同じタイミングと同じ動作でゴミ箱へ投げ入れ、再び見つめあったんだ。そうして俺は鏡の中の自分に向かって、その目を見つめながら、
 
「俺は直枝理樹であってはならない」
「僕は神北拓也でなければならない」
「俺は神北拓也でなければならない」
「僕は直枝理樹であってはならない」

 そう、この時からだ。僕が直枝理樹であってはならなくなって、同時に俺が神北拓也でなければならなくなったのは。
 偽りの自分。演じ続けなければならないということ。だけどそれがどうしたっていうんだろう? 人は誰だって、いつだって何者かを演じている。”本当の自分”などといった空想に、いったいどれだけの意味が、価値があるというんだ? それならば僕が俺でもよかったし、俺は僕でもよかった。私でもよかったし、あたしでもよかった。
 たった一つのものでも、それを最後まで守りきることができるなら、何でもよかったんだ。
 だから僕は、今日も小毬の待つ屋上目指して鉛のように重くなった足を引きずり、転げ落ちそうになりながら階段を這い登り詰めていった。

 体は思うように動かず、全身を強化ギブスで雁字搦めにしてしまったかのようだ。それでも俺は、いつか手渡されたドライバーを制服のポケットから取り出すと、窓枠のネジを外そうとして、しかしすでに外れていることに気がついた。先に小毬が来ているのだろう、と推測し、屋上へと降り立った。途端に吹き抜けていく風に体を煽られ、倒れそうになる。そういえば最後に食事を摂ったのはいつのことだったろう。まあいい。そんなのは些細な問題だ。
 思った通り先に来ていた小毬は、今日も虚空を見つめるように仰向けになったまま寝転んでいた。瞳こそ閉じられてはいなかったものの、その目は何も捉えてはいなかった。奈落の底を覗き込んだような違和感さえ覚える虚無の瞳の中に僕の姿が映し出されて、ひどく滑稽に見え――そんなもの見たくなくて、だから俺は小毬にキスをした。ゼロ距離射程。何も見えない。強いて言うなら、近すぎて真っ暗だった。闇が見えた。

「いい風だな」
「うん、いいかぜ」
「気持ちいいな」
「うん、きもちいい」
「これだけ気持ちいいと、眠くなる」
「うん、ねむくなる」

 ボイスレコーダーのように僕の言葉を繰り返すだけ。いや、違う。感情がこもらない分、劣化している。まるで壁に向かって話しかけているみたいだ。でもそんなパターン化された会話を交わす無為な時間でさえ、今の僕にはとても素敵なものに思えた。頭をそっとなでると、微笑んでくれる。小毬。俺の大切な小毬。もう他には何も残っていない。いつか僕を救ってくれた頼もしい背中も、隣を歩いていた可憐な少女も、気づけばどこにもいなくなっていた。ほんの少しばかりわだかまるこの胸の想いを、かつて僕は”寂しさ”と呼んだかもしれない。でも今、俺の隣には小毬がいた。だからもう、何も恐れることはない。

「おにーちゃん」
「どうした?」
「すこしねる」
「ああ、ゆっくりおやすみ」
「うん、おやすみなさい」

 よほど疲れているんだろう、最後の言葉から一分も経たないうちに寝息が伝わってくる。今日はいろいろあったから仕方ない。遊園地に行って、ジェットコースターに乗って、小毬が怖い怖いとわんわん泣いて、落ち着かせるためにコーヒーカップになんか乗ったりして、それから素敵なお人形さんがたくさんいるよと嘘をついてお化け屋敷に押し込めたりと、一日中――なんだこの記憶は、おかしい、いつ僕と小毬さんは二人で遊園地に行ったりしたんだろう、大体僕らは全寮制の学生で、しかも今日は学校――遊んでたんだから。途中園内で歩きながら食べたソフトクリームなんて胃にはまったく残っていなかったけど、それでも確かに俺たちはあの場所で、どの場所だ? あの場所はあの場所だ。
 今日は日が暮れるまで遊園地で遊んだから少し疲れたなあ。真昼間の、高い位置から僕たちを見下ろす太陽がさんさんと辺りを照らしていて、夏を感じさせる蒸し暑い空気に、肌がしっとりと汗ばんでちょっと気持ちが悪い。お土産に買ったはずの携帯のストラップはどこだろう。一陣の風が舞い上がり、屋上に掃き溜めになっていたゴミを散らかしながら天へと登っていく。記念に写真撮影でもすればよかったかな。雲ひとつない澄み切った青空は、いつ見ても心が洗われるようだ。小毬、怒ってたな……さすがに騙してお化け屋敷はやりすぎだったかな。おやすみ、小毬。
 





 ***






 目の前に、知らない人が立っていた。
 リノリウムが敷き詰められた学園廊下の奥、階段の踊り場付近を歩いていると、そいつは突然僕の目の前に、まるで降って沸いたかのように現れたんだ。唐突だったのは向こうにとっても同じだったらしく、彼は一瞬ものすごく驚いた様子を見せたけれど、すぐに顔を引き締め、僕の顔を疑わしそうに凝視する。
 なんだかひどく不愉快なやつだった。少なくともこの猜疑心に満ちた目は、初対面の人間に対して向けるものじゃない。一目見てこいつとは馬が合わないと思った。
 けれどこれだけの間(といっても実際にはほんの数秒だっただろうけど)お互い目を合わせながら、何事もなかったかのように通り過ぎるのも難しい。だから僕は一歩そいつのほうへと踏み出して、

「やあ」

 手を挙げると、そいつも曖昧な笑みを浮かべながら僕のほうへ前進しつつ同じように手を挙げて応えた。そして、存外悪い人じゃなさそうだ、ともう一歩足を踏み出して、ようやく僕は気がついた。

 なんだ、ただの鏡か。






 ***






 ほら、もう残っちゃいない。
 僕が僕であることを認めてくれるひとは、もう誰も残っちゃいない。

 僕が僕であるということを、誰かが認めてくれる――僕が僕であるためには、それだけで充分だった。
 でも、もしも誰も僕が僕であることを認めてくれなくなってしまったとしたら?
 ……それこそが闇の正体だった。
 僕は僕が僕であることすら、もう忘れてしまっていたんだ。
 僕は俺だったかもしれないし、私だったかもしれないし、あたしだったかもしれないし、あいつだったかもしれないし、あなただったかもしれないし、彼だったかもしれないし、彼女だったかもしれない。
 もう僕は何者でもなかった。完全に、ゼロだった。無にもなれず、さりとて有にもなれない歪んだ肉細工。それが僕の正体だ。

 そうだ、小毬に会いに行こう。
 俺の大切な小毬。彼女だけは僕を見つけてくれる。認めてくれる。求めてくれる。見つめてくれる。僕も君だけを見つめてあげる。求めてあげる。認めてあげる。見つけてあげる。
 小毬はどこにいるんだろう。決まってる。屋上だ。
 僕は廊下にポツリと置き去りにされていた消火器を思い切り蹴飛ばして、白煙が開け放たれた窓から空へと舞い上がっていくのを最後まで見届けると、階段を三段飛ばしで駆け上がっていった。

 屋上へと続く階段をすっ飛ばし、窓枠にドライバーの先を思い切り突き刺して壊すと――あれ、こういう使い方で良いんだっけ――ばたん、と大きな音を立てて窓が外れる。ガラスに亀裂が走っていた。誰がやったんだろう、ひどい奴もいたものだな、とあたしは思った。

 屋上へ出ると、まだ小毬は来ていないようだった。私はフェンスに手をかけて無意味にがしゃがしゃ鳴らし、無性におかしくなってくすくすと笑っていた。濃度0.1%のカルピス色の空はいつものように霞んでいて頼りなく、今にも消えてしまいそうだ。コンクリートに刻まれた縦縞の模様をラインに見立て、僕は反復横とびを始めることにする。1、2、3、4回目で飽きてやめた。ひどくつまらなかった。

 小毬はどこだ。奴らはどこに小毬を隠したんだ。奴らって誰だ。そう、カラスだ。カラスは悪魔の使者だ。あいつめ、今日も俺を監視しているな。今日という今日こそは、こっぴどい目に遭わせてやるからな。ちょうど手ごろな大きさの石ころがあったからこいつをぶん投げてやろう。……ちぇ、外れてしまったな。あなたが投げた石の塊は、明後日の方角へ向かって鬼は外、福は内。ところでカラスはもうすでにいなくなっていた。そういえば小毬以外の生き物を見たのも久しぶりだな、と思った。

 微かな物音が聞こえたような気がして、後ろを振り向くと、そこにはどこか呆けた様子の小毬が所在なさげに突っ立っていた。その視線は遥か上空、きっとカラスの行方でも追っていたのだろう。小毬はそういう子だ。「あ、カラスさんだー」と言って触ろうとして、威嚇されて泣いてしまうタイプだ。兄馬鹿といわれてしまうかもしれないけれど、小毬はとても可愛い子なんだ。兄? そう、僕は小毬のお兄さんだ。あれ、でもそれじゃ困ったな。一般に、兄と妹は結ばれないものだ。近親相姦はよくない。諦めよう。そして、それはそれとして、今日は小毬のことを考えて自慰をしようと思った。

「おはよう小毬。昨日は良く眠れたかな」
「…………………………………だぁれ?」

 ほら、もう誰も残っちゃいない。

  

<了>

  


面白かったらぜひっ

あとがき
 最後までこの作品にお付き合いくださった方がどれほどいらっしゃるかは存じませんが、まずはお読みいただきましてありがとうございます。途中下車された方には相すみません、と届くはずもないですが謝罪の言葉を。
 というわけで久々のダーク物です。鬱系で、しかも救いもなくて、なおかつそれを捧げ物にするあたり、「だめだこいつ……早くなんとかしないと……」と自分で思ったりもします。もしかしたら投稿先の管理人さんに「見なかったことにしよう」と削除されて掲載されないかもしれませんが、今はそれはそれで良いような気さえしています。書ききっただけでもう満足、といったところでしょうか。こんな自己満足的作品など贈ってしまい、管理人さんには重ね重ねお詫び申し上げます。
 他所様に出すものなんだし、たまには真面目にあとがきを書こうとも思うのですが、困ったことに一向に何も思いつきませんでした。ちなみにここまでであとがきだけで30分ほど費やしていたりしますが、閑話休題。
 最後に一言だけ。願わくば、こんな結末が訪れませんように。
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