「こまりおねーちゃん、いいにおいがするーっ」
「は、はるちゃんくすぐったいよ〜」
「小毬さん、小毬さん、次は私にだっこさせてくださいっ」
「うんいいよ〜……でももうちょっとっ」
「こまりちゃんも、すっかりお気に入りだな」

今朝の三枝邸は、いつになく騒がしかった。
一般家庭の慎ましい玄関に、総勢11名もの人が集まってきゃっきゃと黄色い声を上げているのだから、それはもう喧しいと言う他ない。
もちろんその中心には『はるか』がいて。
それを取り囲む、お馴染みリトルバスターズ。
いつかこんな日が来るのかもしれない、と夢想してはいたが、まさか今日それが現実と化すとは思いもしなかった。

「……どうするのよ、これ」
「どうするって言われても、ねぇ。バレちゃったものは仕方がないし」
「どうしてあなたは、こんな大所帯に尾けられてることに気づかないのよ……」
「すみません……」

佳奈多さんの嘆息混じりの小言に、僕は返す言葉もなく、平謝り。
しかし文句を言ったところで結果が覆るわけがないことは悟っているのだろう、もう一度小さく溜め息を吐き、彼女は天を仰ぐ。
この事態を招いてしまったことに多分の申し訳なさを感じつつも、僕はどこか能天気に、前向きな考えで。
『きっと、大丈夫だろう』という根拠も何もない思いを抱いたりもしていて。
それは、バレたのがリトルバスターズの皆だったからという安心感が大いに起因しているのだろうということは言うまでもなく。
でもこれだけの大人数に事が知れてしまったことは早計で、最近気を抜いていたのかもしれないと、心の奥底では反省もしていて。
やっぱり結局は、『仕方ないか』という諦めにも近い気持ちに落ち着いて。
最終的に、今は皆の好きな様にさせてあげようという結論に終着して、僕は彼女と同じく空を見上げた。

わかっていたことではある。
皆よりも早く起床し、朝食を摂り、見つかる前に寮を出る。
毎日そんな事を繰り返していれば、勘繰らない方が無理というものだ。
そもそも今まで隠し通せてきたこと、皆が何も言わずに見守ってくれていたこと自体が、幸運だったと言っても過言ではないだろう。
そこには、いつか僕が喋ってくれるに違いないという信頼があったのだろうと思うと、少し心が痛む。
そして今日の様に、僕の後を尾行するといった直接的行動に走らせてしまったことにも、やはり申し訳ない気持ちが滲む。
けれどこの件に関してはそうそう口を割ることなど、出来るはずがなかった。
彼女……葉留佳さんは、既に皆の知る葉留佳さんではなくなってしまっているから。
皆がそれでどうこう言う事はないだろうし、何か邪な噂を吹聴するわけがないことはわかっている。
でも、これは僕や佳奈多さんが思っている以上に大事なのかもしれなくて。
いや、現時点でも、葉留佳さんは十数年という時の記憶を失ってしまったわけで。
そこには新しい生という希望に満ちた光がある反面、僕らと同じ時を歩めるはずだった人生を強制的に失ってしまったということでもある。
彼女の失ったものは、予想以上に多い。
そして、それを取り戻す方法も、未だ何1つ、手がかりすらも掴めていない。
どこに手を伸ばせばいいのかもわからず、暗中模索の日々がいつ終わりを告げるのか、僕も佳奈多さんも、そして晶さんも、誰にもわからない。
そんな状況下で、皆に話せるわけがなかった。
混乱の種は増やしたくなかったのだ。

「……でも」
「ん?」
「『はるか』の話し相手が増えることは、良いことなのかもしれないわね……1番良いのは、元に戻ることだけれども」
「……そうだね」

新しくやってきたお兄さん、お姉さんを前にして、『はるか』は泣きもせずに、人懐っこく話しかけて、ころころと笑っていた。
そこには僕らが今まで見たこともない様な表情や大笑いをすることもあって。
これだけクセのあるメンバーが揃っているのだ、『はるか』は面白くて仕方がないだろう。
姿は変われど、元々メンバーの一員だ、親和性は高いに違いない。
『はるか』の笑顔を見れば、それは明らかだった。

僕らは、焦っていたのかもしれない。
子どもである『はるか』を放って、葉留佳さんに戻ることばかり考えていて。
『はるか』のために何がしてあげられるか、それを考えていなかったのかもしれない。
保険、ではないけれど。
もしも……元に戻れないとなった時に。
幼少時代を閉鎖的に過ごしてしまった『はるか』の今後の生活に、支障をきたすかもしれない。
幼稚園にも保育園にも通っていない『はるか』の接する人物は、本当に少ない。
同年代の友達もいない。
新しい生という希望に満ちた、光。
光もいつかは消えてしまうもの。
それを照らし続ける努力を、僕らは怠っていたのかもしれない。

「……っ!?」

登校時間ももうそろそろやばくなり始めたというのに、そんな物思いに耽っていた時だ。
僕の背筋に、薄ら寒い何かが走り去った。

「どうしたの?」
「……いや」
「理樹……」
「謙吾」

僕の挙動不審な態度に首を傾げる佳奈多さんをよそに、恐らく僕と同様に察知したらしく、こちらに歩み寄ってきた謙吾と視線を交わす。
そう、僕らは忘れていた。
いや、そうじゃない。
『まさかそんなわけがない』って、必死にその事実から逃げていただけだ。
前々からそれらしい点はいくつかあったけど。
むしろ『絶対そうだろ』と確信づく点は星の数程あったけど。
でも、違うって。
それはきっと冗談で、僕らがそう疑うことすらもわかっていてのボケだって。
身体を張った、自ら汚れ役としたものだって。
僕らは、信じていたのだ。
……そう、信じなければならかったのだ。

「ちょっと、あなたたちどうしたのよ?」

神妙な顔つきで黙りこくる僕達に眉を顰めながら問う佳奈多さんに、僕はそっと、指を差した。
玄関前で『はるか』を囲う皆から、少し離れた場所を。

「一体何がどうしたって……っ!?」
「わかった?」
「い、いえっ、まさか……で、でも、そんなっ!?」

そこにいる『カレ』を視認した彼女が、目に見えて狼狽する。
彼女がその『ギワク』を知っていたかどうかは定かではなかったが、少なくとも今の様子と言動を見る限り、どこからかキャッチしていたのだろう。
でなければ、『まさか』などと口走れるはずがない。

「ほ、本当にそうなのっ?」
「さぁ……ただ」
「ただ?」
「今のあいつは、正常ではないことはわかるな……」
「……」

謙吾の一言に佳奈多さんは言葉を失い、呆然としながら、『カレ』を見つめた。
彼女とて、いくら予想の対角線上を行く様な度し難い人間であったとしても、そんな嗜好の持ち主だとは思っていなかったのだろう。
毎度彼女の頭痛の種となる相手であっても、その才能を認めている部分はあったのだと思う。
使い所には果てしなく疑問を抱くかもしれないが。
だからこそ。
自分とは別次元の人間だと理解していても、少なからず認めているその人が、『それ』を好む人間だと受け入れることはできないのだ。

「すごーいっ、かたいかたーいっ!」
「はっ、俺のこの日々の鍛錬によって作られた腹筋を気に入ってくれたようだな……おーい、恭介!お前もそんな所にいないで、こいつと遊ぼうぜっ!」
『あの馬鹿っ!』

僕らが危惧し、どう扱おうかと悩んでいるのなんて知る由もなく、筋肉に生まれ筋肉をこよなく愛し筋肉でもって人生を終えることを誓う某『愛すべき馬鹿』は、事も無げに『カレ』、恭介の名を呼んだ。
僕ら3人のみならず、筋肉に生まれきんに……あぁもうめんどいっ、真人と恭介以外の人間の顔色が瞬時に変わる。

「ん?どしたのみんなー?」

訂正、『はるか』も除く。

「……あぁ、そうだな」

ゆらり。
幽鬼の如く、どこか不気味な雰囲気を持った緩慢な動作で、恭介は皆の下へ、ゆっくりと近づいていく。

「ひっ!?」

クドの声だろうか、多分に怯えの孕んだ、しゃくりあがった小さな悲鳴を皮切りに、皆がモーセの十戒の如く、恭介の道を作る。
真人もようやく異変に気づいたのだろう、謙吾に訝った視線を向けるも、返答はただ力なく首を横に振られるだけだった。
妹である鈴も。
完全無敵の来ヶ谷さんも。
何だかよくわからない西園さんも。
恐らく太刀打ちできるであろう彼女らでさえも、怖いほどに無表情な恭介の前には、ただただ後ずさるしかなかった。

「……」
「?」

そして辿り着くは、僕達最愛の少女、『はるか』の下。
瞬く間に変わった周囲の空気に気づかず、そして目の前にやってきた、端正な顔立ちをした見知らぬ青年のおかしな様子にもやっぱり気づくことはできなくて、『はるか』はただただ人差し指を口元に当てながら、ちょこんと小首を傾げていた。
対する恭介は、やっぱり無表情のまま、『はるか』を見据えている。

でも、僕は気づいていた。
その瞬間、恭介の指先がピクリと跳ね上がっていたことを。

「……おにいちゃん、だれ?」
「ぐはぁっ!!!」

『はるか』の何気ないその一言に、恭介は血反吐でも吐くのではないかというくらいの呻きを上げ、がくりと膝をついて崩れ落ちた。
あまりに一瞬すぎたその攻防の中で、誰もが、あんまり事態をわかっていなかった真人すらも、ある1つの結論を脳内に構築していた。

『ダメだこいつ、なんとかしないと……』

「おにいちゃんどうしたのっ!?ねぇ、どこかいたいの、おにいちゃんっ!?」
「だ、ダメだはるかっ、こいつに何回もそんな呼び方しちゃっ!」
「で、でも、おにいちゃんくるしそうだよっ!?」

いきなり悶絶しだした恭介に、慌てて駆け寄って『おにいちゃん』を連呼する『はるか』を、鈴が慌てて抱き上げて避難する。
計4回にも『おにいちゃん』という呼びかけは、恭介の心に甚大なるダメージを与えたことだろう。
いや、ある意味で『シフク』を呼んだのかもしれない。

「……」

皆が門の前に集まり、玄関前に蹲る恭介の様子を固唾を飲んで見守る。
ビクンビクンと奇妙な痙攣を繰り返しながら、恭介は一向に顔を上げようとしない。

「お、おい、大丈夫か……?」

謙吾が、そう口を開いた瞬間だった。

「ぐっ……ぐあああああああああああああっっっ!!!」

清々しい朝に木霊する、狂喜に満ちた咆哮。
この瞬間、僕らは最悪のシナリオに進んでしまったことを理解した。

「お、俺をもっと、お兄ちゃんとおおおおぉぉぉぉっっっ!!!」
「や、やべぇっ、興奮しまくってるぞっ!」
「謙吾、真人っ、恭介を取り押さえてっ!」
「わかった!」
「は、はるちゃんっ、あの人を見ちゃいけませんっ!」
「えっ、えっ、えっ?」

一気に慌しくなる。
『もういいっ、俺(21)でいいからっ、もっとぉっ!』と叫ぶ恭介を必死に抑える謙吾と真人。
身を挺して何としてでも姿を見せんとする小毬さんとクド、そして鈴。
まさかの事態に茫然自失となる佳奈多さん。
和やかな三枝邸の玄関は一転して、阿鼻叫喚へと変わり果てた。
というか、おばさん、おじさん、あんたらこんな騒がしくしてるの気づいてないのかっ?

「シンクロ率上昇!制御出来ませんっ」
「そんな……あれだけの攻撃を受けて、動けるはずが……」
「まさかこれは、ぼうそ……って、西園さんに来ヶ谷さん、遊んでる時じゃないでしょっ!?」
「すいません、つい……」
「いやぁ、恭介氏の気持ちもわからなくはなくてな、はっはっは」
「あぁ、もうっ!」

暢気に即興芸をしだす2人に見切りをつけ、僕も恭介の下へと走り寄る。
10メートルにも満たない助走距離でもしかし、渾身の力を込めてスピードに乗って。
制裁を加えるべく、僕は慣性の法則に従って、思い切り地を蹴って。
何処かで風紀委員長に食らったかもしれないあの痛みを思い出しながら。

「鈴の下着を買うのはもうやめるんだっ、きょうすえけええええぇぇぇぇぇっっっ!!!」

『叩けば直る』の要領で、僕は恭介の顔目がけてドロップキックを炸裂させたのだった―――。








一言掲示板設置記念リクエスト。
『葉留佳verようじょの続編、メンバーにバレてわいわい、(21)疑惑の恭介は特にタジタジ』な感じの話です。
ようじょなはるかに、『すごい、かたいね……』的なことを言わせるためにこんな話にしたなんてことはない、断じてない。

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