「あら理樹君。今日も来てくれたの?」
「いえ、好きでやってる事ですし」

呼び鈴を鳴らして数秒後、僕を出迎えてくれたのは、おばさんだった。
朝食を作っていたのだろうか、玄関先から味噌汁の匂いが微かに流れてきていた。

「ちょっと待っててね、今呼ぶから」
「いえ、僕は別に平気ですから」
「佳奈多ーっ!理樹君が来てくれたわよーっ!」

サンダルを脱ぎつつ、玄関を入ってすぐの階段を見上げながら、おばさんは大声で叫んだ。
45分……これなら、怒られはしないだろう。
あまり早く来すぎると、出発時間すら正確無比の彼女にどやされてしまうから。
おばさんの呼びかけから程なくして、2階から、軽い足音が聞こえてきた。
少しくらい家の中でなら楽にしてもいいんじゃないかと思ったが、気兼ねする必要のないはずの自宅でも、礼節を重んじる彼女の姿を思い浮かべ、『そっちの方がらしいかな』と、即座に考えを変えた。
そして。

「毎朝あなたもよく来るわねぇ。別に来なくてもいいのよ?」
「いや、こうでもしないと毎日会えるかわからないし」
「それもそうね……ということで、おはよう」
「うん、佳奈多さんおはよう」

まだ脳が活発化していないのだろうか、若干気だるげな雰囲気を全身に覆いながら、佳奈多さんが下りてきた。
こうして朝に顔を見合わせる様になってから、何日経ったろうか。
それ程日は過ぎていないはずなのに、もう数年こんな朝を迎えてきた様な感覚に、僕は陥っていた。

「葉留佳さんは?」
「着替え中……葉留佳ーっ、早くしないと『りきくん』行っちゃうわよーっ!」

どたんっ!

佳奈多さんの声とほぼ同時に、1階の奥の方で、大きな物音が鳴った。
『まって、まってーっ!』という声が聞こえてきた後。

ばたんっ!どたどたどた……

豪快な扉の開閉音と共に、おぼつかない足音。

どたどた、べたんっ!

あ、コケた。
見ずとも、その音ですぐわかる。
『葉留佳、だいじょうぶっ?』『うんだいじょぶーっ』という、親子のくぐもった会話が耳に入ってきた。
佳奈多さんも聞こえていたのだろう、溜め息を吐きつつも、『しょうがないわね、あの娘は……』と、小さく笑った。
そして。

ばたんっ!

「りきくん、おっはよーっ!」

玄関に繋がる部屋から、大きな声と共に小さな体が飛び出してきた。
その体の持ち主は、スピードを維持したまま僕ら目がけて突っ込んできて。

「おはよーりきくんっ!」
「わっ!……っと、と」

僕に抱きついた。
まさか飛び込んでくるとは思わず一瞬よろけたが、何とかその体を、胸元にすっぽりと収める。
全く……危なっかしいのは、相変わらずか。
腰に足を絡め、僕の胸に顔を埋める少女に苦笑しながら、僕は口を開いた。

「おはよう、葉留佳」
「うん、おはよーりきくんっ!」

僕の声に即座に顔を上げ、太陽の様な笑顔を浮かべ、彼女は元気に挨拶を口にした。
その笑顔も相変わらずだな、と嬉しさに一層頬を緩めた。

「何か、あなたがそうやってると、犯罪の雰囲気が漂うわね」
「至って普通の反応じゃない、そう考える佳奈多さんの方がアブナイね」
「りきくん、わるいことしたのー?」
「ううん、僕はなーんにも悪い事してないよ?」
「だよねっ、りきくんがそんなことするはずないもんねっ」

寝てすっかり元気になったのだろう、無邪気な声を上げながら、葉留佳は僕の体から飛ぶ様に離れ、僕と佳奈多さんの間に着地する。
地に足をつける彼女の頭は、佳奈多さんの腰よりも低い位置にあって。
もみじの様に小さい手を上げながら、ぴょんぴょんと飛び跳ねる彼女だったが、それでも、その手は佳奈多さんの胸元にも届いていなかった。
そう……。
葉留佳さんは、小さくなっていた。

「それじゃ葉留佳、私達は行ってくるわね」
「え〜!はるか、またおるすばーん?」

指を口元に当てながら、不満そうに唇を尖らせ、葉留佳がぼやいた。
そんな葉留佳の様子にくすりと笑みを漏らしながら、佳奈多さんが中腰になり、言い聞かせる様に、話し始めた。

「お母さんがついててくれるでしょう?」
「うん……でも、お姉ちゃんと、りきくんがいないとつまんない……」
「ごめんね。お姉さんと、理樹君は、学校に行かないといけないの」
「はるかは、行っちゃだめなの?」
「葉留佳は、もう少し大きくなったら、行ける様になるわ」
「ほんとっ?じゃぁ、はるかおっきくなるっ!」
「頑張りなさい……それじゃ、私達が帰ってくるまで、お母さんとちゃんとお留守番するのよ?」
「うんっ、はやくかえってきてねっ!」

『いってらっしゃーい!』とぶんぶんと手を振る葉留佳に、こちらも手を振って応えながら、僕らは出発した。
葉留佳の姿がすっかり見えなくなった頃、僕はふと先程の光景を思い出し、笑みを零した。

「何1人で笑ってるのよ、気持ち悪いわね」
「いやぁ、さっきの2人を思い出して、つい……ね」
「な、何よ。どこもおかしい所なんてなかったじゃない」

自分であの光景を思い出し、照れ隠しに不機嫌面をする佳奈多さんに、止まらない笑いを隠そうともせず、『そうだね』と、相槌を打った。
まぁそれで彼女の機嫌が取れるわけもなく、『もうっ』と怒った様にそっぽを向く彼女にやはりこらえきれず、僕は笑った。

幼児退行。
見ればわかる通り、葉留佳さんは幼くなった。
心だけでなく、体も。
何が原因で、いつどうなったのか……情報は、全くと言っていい程なかった。
唯一わかっているのは、葉留佳さんが寝静まった2週間前の午前1頃から、翌朝7時になっても起きてこない彼女を見かね、佳奈多さんが起こしに行くまでの間に、それが起こったであろうという事だけだった。
つまりは、佳奈多さんが葉留佳さんの部屋に入った時には既に、彼女は小さくなっていた、という事だ。
その間、佳奈多さんも、そして両親も葉留佳さんを見ておらず、まして家の中に誰かが入った形跡もない。
空白の6時間……そこで葉留佳さんの身に何が起きたのか、それは今でもわかっていない。
何しろ、彼女はそれまでの記憶は全くなく、すっかり年相応の子供になってしまっていたからだ。
身長的に4、5歳くらいだろうか……幸いだったのは、言葉づかいなどは年相応に覚えている事だった。
体は幼児でも成長度合いは乳児並、なんて事態にならなかった事は、不幸中の幸いだろう。

「何か、わかった?」
「全く。母さん達は母さん達で、すっかり葉留佳を溺愛しちゃってて……まぁ仕方のない事ではあるけれど、現状打破の為にまともに動いているのは、私と父さんだけって感じね」
「父さんってのは……」
「あっちの方よ」
「あぁ……まぁ、おばさん達は、仕方ないね」

その事実を僕が知ったのは、佳奈多さんが発見した日の、夕方だった。
2人の担任から『家から電話があって休むそうだ』と聞いていた僕は、それに対し何の疑問も抱かぬまま授業をこなし、放課後、商店街へと向かった。
他のメンバーは野球をしていたが、僕は生活雑貨を補給しなければならず、恭介に連絡を入れ、その日はグラウンドには行かなかった。
そうして僕1人が街へと赴き、買う物を買い……最後の店を出た時だ。
反対側の店に、見覚えのある2人がいた。
その2人は楽しそうに店内を物色しながら、カゴ一杯に商品を詰め込んでいた。
そこは、子供服専門店だった。
『もしや3人目……?』と下世話な思考を持ちながら、僕は、その2人に声をかけた。

『あの……?』
『あら、理樹君じゃない』
『おぉ、理樹君偶然だな』

言うまでもなく、葉留佳さん達の両親だった。
そして買い込んでいたのも、言うまでもなく葉留佳さんの為の服。
相当な事態になっていたというのにあれだけ楽しそうにはしゃぐ2人に、事実を知った直後は『不謹慎なんじゃ……』と思ったが、後に、佳奈多さんからとある話を聞かされてから、その考えが脳裏を過ることはなくなった。

『母さんも父さんも、大変な事だとわかってても、やっぱり嬉しいのよ。不幸自慢じゃないけど、私達、幼い頃から不遇だったじゃない?母さん達も、葉留佳に対してずっと壁を作って接してきたし……きっと、チャンスだと考えてしまっている部分があると思うの。葉留佳と、一から家族として生活していくチャンスだって……』

それが良いのか悪いのか、僕にはわからなかった。
葉留佳さんならどう言うだろうかと考えても、『その』葉留佳さんは今は幼児で、それを僕らが勝手に類推して行動する事なんて、出来るわけもなく。
まぁそんな事以前に、治す術すらなく。
結局僕らは、何か他に事例はないか、手がかりはないかという情報を、求めるだけに終わっていた。
そしてそんな情報すら手に入らないのだから、今はどうしようもなかった。

「どうしようか……」
「八方塞だもの、計画を立てようにも、立てられない……がむしゃらに情報を探るしかないわね」
「だね」

2人並んで、学校までの道のりをてくてくと歩く。
前後にも、僕らと同じ学校の生徒がちらほらと見える。
この2週間、ほぼ毎日見る生徒達ばかりだった。
片やリトルバスターズの一員、片や鬼の風紀委員長という僕らが、朝一緒に登校しているということで、この周りの生徒達も最初は何事かと奇異の視線を向けてきたが、もう今では慣れてしまったのか、僕らを一瞥するだけで、後は欠伸を噛み殺しながら歩く者ばかりだった。

「すっかり、ここの人達にも受け入れられちゃったなぁ、僕」
「毎日来るからよ。そんなに私と学校行きたいわけ?」
「まぁ、それもあるかな」
「……はぁ、物好きね」

そんな事はないさ。
など言った所で、自分にモテる要素が微塵もないと思い込んでいる彼女を余計に頑なにさせるだけだった。
自分を冷静に分析できる彼女は、それでもあえて自分が『男受けしない』と、言い切っていた。
それが風紀委員長としての顔しか見せていないからだと、僕は思う。
そして、それ以外の顔を校内で見せる気でいない事もわかっているので、それ以外の顔を知っている僕は、もしかして凄いのだろうか。
ま、単なる友達でしかないけども。

「だから母さん達に、『理樹君と佳奈多と葉留佳、3人で一緒にいると親子みたいね』なんて言われるのよ……まぁ、悪い気はしないけど」
「……プロポーズ?」
「後100万倍、あなたが素敵な男性になったら考えてあげてもいいわ」
「気が遠くなりそうな話だね」

まぁ、こんなもんだよね。
優越感に浸るためには、中々に厳しい道のりだ。
そんな事を思いながら、僕は緩やかな坂道を、彼女と一緒に登っていくのだった―――



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