汚れたトイレの掃除を終え、クドリャフカがリビングに戻ると、祖父はソファに座ってテレビを眺めていた。先ほどまで「誰だこんなに汚したのは」と喚き散らしていたのが嘘の様に、穏やかな表情を浮かべている。理知的だった祖父の変わり様に憂い、涙していた自分は当の昔にいなくなっていたが、この感情の起伏にはまだ慣れない。安定した介護に辿り着けるのはいつのことだろう。最近富に増えた溜息をかみ殺し、クドリャフカは祖父に話しかける。 「おじいさん、何を見てるんですか?」 「宇宙だよ」 祖父の言うとおり、テレビでは、先日地球を飛び立ったスペースシャトルが宇宙ステーションにたどり着いたというニュースが流れていた。黒々とした宇宙空間に、白を基調としたスペースシャトルが大きく映し出されている。 「わしらの計画なら、もう少しうまく事を運べるんだがな」 ふん、と鼻息荒く祖父は言う。しかし、母国の宇宙計画は十年前に頓挫して以降、再開の目途は未だ立っていなかった。祖父の記憶に、母国の現状はない。クドリャフカが何度かそれとなく真実を語ってみたことがあるが、今の祖父では物事を覚えることも適わず、むしろ「何を言っているのだ」と怒りを買うばかりだった。以来、クドリャフカは祖父の話を否定することをやめた。 「そうですね。次こそは、私たちの国のスペースシャトルが飛ぶ番ですね」 「あぁ。その時はクーニャ、お前が乗るんだぞ」 優しく笑いかける祖父に、クドリャフカも微笑みを返す。愛想笑いも板についたものだ、と内心で冷めた感想を漏らす。宇宙飛行士などという夢は、母国の計画よりもずっと前に潰えている。必死に学んだものも役に立たず、残った呆けた老人に叶わぬ夢を見せ続ける介護の仕事に、クドリャフカは日々しがみついている。疲れる毎日だったが、どこか満たされるようなところもある。空虚な夢を追い続けるのは楽しかった。 はい、頑張りますと言おうと口を開きかけた時、はてと、祖父が先に呟く。 「クーニャ」 「はい」 「お前が前に宇宙に行ったのは、何時のことだったかな?」 クドリャフカは少し肩を震わせた。妄想の中で自分は宇宙飛行士として大成しているのか、それともぼやけた記憶の中の誰かと間違えているのか。祖父の記憶が見えなかった。 ――もし、母と間違えられているとするのなら。 それは嬉しいかもしれない、とクドリャフカは思う。脳に支障をきたしていたとしても、祖父にとって、自分は母と同等に見られている。成しえなかった憧れの姿が誰かの中で実現されていることに、クドリャフカは少なからずの快感を覚える。 「なに言ってるんですかおじいさん。もう十年も前のことですよ」 「おぉそうだったか。もうそんなになるんだなぁ」 クドリャフカの言葉をあっさりと信じ、祖父は昔を懐かしむように虚空を見つめた。 ――おじいさんはいつまで、自分を立派な孫娘として見てくれるだろうか。 もはや効き目のなくなってきた痴呆予防薬を準備しつつ、クドリャフカは現実と虚構の間に想いを馳せる。ともすれば、今の私のみじめな姿自体が夢なのかもしれないと期待し、クドリャフカは今日も呆け老人の相手をする。
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