「恭介の家に行こう」と鈴が唐突に言い出したのは、センター試験が約三週間後に迫った年末のこと。別段拒む理由もないので二つ返事でその提案に乗った理樹だったが、その理由を知らされた時、思わず浮かんだ苦笑を抑えることができなかった。
 恭介の家に行く目的は、鈴曰く、「年末大掃除だ」とのこと。
 恭介が高校を卒業し一人暮らしを始めてから、鈴は兄である恭介の身の回りを甲斐甲斐しく世話する妹へと徐々に変わりつつあった。今までの恩返しのつもりなのか、寂しいが為に会いに来る口実として使っているのか、はたまたまめまめしく世話する奉仕の心に目覚めたのか。鈴の心にどういう心境の変化が起こったのかは理樹の知るところではなかったが、夏に二度、同じように恭介の家を掃除しに行ってくると言った鈴に同行した記憶を掘り返せば、鈴の掃除に「妥協」の二文字はどこにも見当たらなかった、ということだけは鮮明に思い出すことができた。あれは掃除という名の模様替えだった、と理樹は振り返る。それはもう、恭介の意思すらも問答無用で切り捨てるほどに。
 きっと今回もそうに違いない、と理樹は予想する。そしてそれは見事に的中した。
 久方ぶりに訪れた恭介の家は、そこまで汚くはなかった。むしろ男の一人暮らしとしては綺麗な部類と言えた。少なくとも理樹と恭介の目からは、この部屋にメスを入れる場所などないように見えた。
 しかしそんな理樹と恭介の評価を、鈴はぶった切る。ここが汚い。この棚の位置が悪い。換気扇が汚れてる、冷蔵庫の裏は掃除してるのか云々。
 まるで掃除業者の如く細かに部屋を見回していった鈴は、チェックを終えると即座に出かける準備を済ませ、「必要なもの買ってくる」と言って外へと飛び出して行った。己の構想に口を挟ませる気はないらしく、さらに言うと手すらも出させる気はないらしかった。
 男二人部屋に立ち尽くす。何もすることがない。というか何か勝手にやったら怒られそう。いや絶対怒るだろあいつ。
 恐ろしいほどに手持無沙汰になった理樹と恭介は、何か暇を潰せるものを探した。その結果。
「これがマイルドセブン。マイセン、と略す」
「うん、見たことある。あ、これも見たことあるよ」
「そっちはセブンスターだな。セッターとかブンタ、と言うんだ」
「ふーん。こっちの金色のやつもセブンスターなんだよね?」
「それはセッターのミディアムだな」
「ミディアム?」
「普通のセッターよりもタールとかニコチンが少ないタイプなんだ」
 軽いとかって言うんだがな、と付け加えた恭介の言葉に、理樹は興味深げにへぇ、と唸る。
 なぜか煙草講義をしていた。
 夏にこの家に来た時から恭介が煙草を吸っているということは知っていたが、理樹は煙草についてほぼ無知だった。興味のない者にとってはとことん不必要な世界であるから知らなくとも特に困ることもないのだが、親友が嗜んでいるとあってはさすがに気になったらしく、何かないかと探し回っていた時に、理樹がテーブルに置いてあった手のひらサイズの小箱――恭介の煙草である――を目に入れ、鈴が居なくなったことを好都合とばかりに、「煙草って、どう?」と聞いたのがこの講義の発端であった。
 目の前に広げられているのは、先ほど恭介が最寄りのコンビニから買い込んできた主要紙巻き煙草十数種類。わざわざ講釈を垂れるために樋口一葉を何の躊躇いもなく放りだせる辺り、幼少期からの妙なところで無駄に凝る性質は今でも抜けきっていないらしかった。
「一つの銘柄でも、けっこう種類あるんだね」
「まぁ大体は、パッケージの色合いが薄くなるほど軽いものになってる。あと、緑色のものはメンソール。基本的にはこんな感じだな」
 恭介の説明を耳にして、何度目のふーん、を口にしながら、理樹は近くにあったマイルドセブンを手に取る。ここには十種類そこそこしかないが、さっき行ったコンビニではざっと百種類ほどの煙草があった。しかも、あれでもまだ全然網羅できていないらしい。本当、すごい数だ、と理樹は胸中でそんなことを思う。ここにあるのだけでも覚えきれそうにないのに、と内心で煙草業界の予想以上のバラエティの豊富さに呆気に取られていた。
 そのあまりの情報量の多さに思わず頭がパンクしそうになるが、二度左右に頭を振って、今日はそこまで覚える必要はないだろうと、まだ見ぬ煙草についての思考を完全に切り捨てる。それから、理樹は床に広げられた煙草から、テーブルに置かれた恭介愛飲の煙草へと視線を移す。全体が黒で塗りつぶされ、表中央には、アルファベットのJ、P、Sの三文字が絡みつくように組み合わさって表示されているだけ、というシンプルな作りのパッケージは、今目の前にある煙草達のカラフル具合と比べて、独特な雰囲気を醸し出していた。
「で、恭介の煙草は何ていうの?」
「俺の吸ってるやつは、JPSっていうんだ」
「まんまだね。何かの略?」
「ジョン・プレイヤー・スペシャルの頭文字を取っている」
「ジョン……? それはどういう意味なの?」
「知らん」
「えー」
 理樹の不満げな声は、扉の開く音でかきけされた。鈴が帰ってきたらしい。ビニール袋のがさがさとした音と、とたとたという軽い足音が玄関の方から聞こえてきたと思ったのもつかの間、ぬっと、居間に鈴が大量の荷物を抱えて入ってきた。
「おかえり、鈴」
「えらい買い込んできたな、おい」
「何してるんだ?」
「煙草についてのあれこれを理樹に教えていた」
「理樹を不良にするな、ばかきょーすけ!」
 いきなりキレた。手に持っていた計四つのビニール袋をそのまま下に落として、腰に手を置く。お説教モード丸出しだ。
「おいおい、俺はただ理樹が教えてほしいっていうから」
「言い訳なんてみっともないぞ。ださいな。キモイな。キモイな」
「さいですか。つーかキモイ二回言うな」
「お前もこれを機に煙草やめろ」
「無理だ」
「だったら理樹を引きずり込むな!」
「はいはい、わかってるよ」
「返事は一回だ」
「はい。ったく、いつからこんな口喧しくなったのか……」
「何か言ったか?」
「いいや、何も」
 そう言って恭介は肩を竦めると、テーブルの上の煙草と百円ライターを取って立ち上がる。
「ちょっと煙草吸ってくるわ」
「あぁ、邪魔だからさっさと行け」
「……お前、何しに来たんだ?」
「きょーすけの家の掃除に決まってるだろ?」
「だよなぁ」
 何で俺こんなにぞんざいに扱われてんだろうなぁ、とぼやいてから、恭介はそそくさとベランダへ出て行った。
「僕もベランダに出てるね」
 続いて理樹もベランダへ行こうとすると、鈴にぎろりと睨まれたが、「吸わないって、大丈夫」と手を振って否定してみせると、ならいいとぶっきらぼうな返事が返ってきたので、機嫌が変わらないうちにと、逃げるようにして窓を開けて外へと身を滑り込ませた。
 ベランダに出ると、恭介が既に紫煙をくゆらせていた。ベランダの隅で窓ガラスに寄り掛かるようにしてヤンキー座りをしている。足元にはステンレスの平べったい灰皿が置いてあり、吸いがらが何本か捨ててあった。
「理樹も追い出されたのか?」
「いいや、自主退場」
「掃除は手伝わなくていいのか?」
「必要だったら声かけるでしょ」
 多分自分でやりたいんだと思う、と理樹が言うと、恭介はそうか、と笑い、煙草を灰皿の淵に叩きつけて灰を落とした。その動作の終わりを何気なく見守ってから、理樹は恭介の隣に腰かけた。何故か体育座りだった。
「ね」
「ん?」
「煙草、一本ちょうだい」
「ダメだ」
「やっぱり?」
 まぁダメもとでお願いしたからいいんだけどさぁ、と言う理樹の声はしかし、言葉とは裏腹に残念がっている色が如実に含まれている。物をねだった子どもが親にお預けをくらった時のような、いじけた口調だった。そんな理樹に、恭介は口に煙草をくわえしたまま、はは、と笑った。
「お前に煙草は似合わねーよ」
「に、似合うとか、似合わないとかの問題なの?」
「そりゃそうだ。煙草なんて百害あって一利なし。何か価値があるとすれば格好をつけられる、それだけだ」
「そうなの?」
「あぁ、そうなんだ」
 ふー、と恭介が口から煙を吐き出す。勢いよく飛び出た煙が薄く広がりながら、空へと昇っていく。その様を、理樹は何かに魅入られるように見つめていた。
「でも、もしかしたら僕が吸ってみたら案外似合うかも」
「ないない。自然と体育座りしちまうような男に煙草なんてこれっぽっちも似合わん」
「た、体育座りは関係ないでしょ」
「いーや、ある。第一、お前、高校生だろ」
「恭介だって未成年じゃん」
「高校卒業すりゃ酒と煙草は許されるんだよ」
「……お酒も、飲むの?」
 膝の上に組んだ両腕を枕代わりに、側頭部を乗せながら理樹が尋ねた。ひどく女っぽい仕草だ、と恭介は思ったが、そのことを口に出すことはしなかった。
「酒は、飲み会とかに行ったら飲む程度だな」
「それでも、飲めるんだ」
「まぁ、弱い方ではないと思うがな」
「そっかぁ、恭介はお酒も飲むのかぁ」
 独り言のようにぼんやりとした口調でそう言う理樹に、「で、気になってたんだが」と、恭介は煙草を口にくわえてから言った。
「何で、急にこんなこと聞き出したんだ?」
「こんなことって?」
「酒とか煙草とか、今までそんなこと気にもしてなかったろ」
「うーん、何ていうか」
 理樹は頭をもたげると、思案するように虚空を見つめた。恭介のくわえた煙草の先からゆらゆらと曲がりくねりながら立ち上る細い煙が視界の端に映っていた。
「なんだか、大人だなぁって」
「大人?」
「この一年で、恭介は僕の知らないいろいろなことができるようになって、それを見て、いつか僕らもそうなるのかなぁって思うとさ」
「………」
「そうやって、大人になっていくのかなぁ、とかって思うんだよね」
「……煙草と酒が飲めるだけで、大人になれるわけじゃないだろ」
「そう、だよねぇ」
 柔らかく目を細めて理樹が笑った。何かを懐かしむような寂しがるような、儚い笑顔だ。横目で理樹の表情を見た恭介はそんな印象を抱くと共に、その気持ちはわからないでもないな、とも思った。
 早く大人になりたいと願う子どもならば、誰もが一度は抱いたことだろう。それをしさえすれば大人の仲間入りができるような、そんな感覚。同級生を差し置いて大人の世界に入り込む優越感。イケナイことをしている背徳感。色々なものが混ざり合わさって、タブーを破ることになるその行為は大人になることを望む子どもたちにとって、蕩けるような魅力をいかんなく振りまいてくる。
 その中で、煙草と酒に目をつける者は多い。不良というレッテルを蔑みながらも、どこかでアウトローな行動に憧れる。思春期特有の、自我の目覚めから来る反発精神は、そんなところにも現れる。
 きっと青春期を通り過ぎてきた多くの人が、その一過性の欲望に、「まぁわからないでもないなぁ」と苦笑するに違いない。恭介もその一人であるのは、言うまでもない。とはいえ、だからといってそれを容認できるかといえば、そうではない。
 大人になるなんてのは、そんな簡単なことじゃないんだと、恭介は今になって思っている。煙草を吸えるようになったり酒が飲めるようになったって、待っているのは蝕まれたからだと抜け出せない中毒症状だけだ。本当に、良いことなんて何もない。何もなかった。
 そういうことに興味を持つのはごくごく自然なことで、悪いことじゃない。けれど、それをすることを、認めることはできない。認めさせない。認めては、ならない。それが幼少の頃から唯一の年上で、兄貴分として面倒見てきた自分の役目だ。そうに違いない。
 そんなことを煙草が一センチほど縮む間考えた末に、恭介は、まぁとりあえず、と言って、灰皿に煙草を押しつぶして立ち上がった。
「お前が鈴と毎晩してることも、十分オトナな行為だと、俺は思うぞ」
「へっ?」
 唐突な話題に目を丸くさせる理樹にじゃぁ先に戻るわ、と笑いながら言い残して、恭介は部屋に入る。
 「きょ、恭介、何でそんなこと知ってっ!?」と慌てる理樹に、にやにやとした笑顔を窓越しに向けたまま、恭介は窓を閉めて振り返る。
 部屋の中には、一年前には欠片も想像できなかった、掃除機をかけて走り回る妹の姿があった。


終わり



「……ま、お前も十分大人だよ。特に、この辺がな!」
「き、きゃぁっ! も、もう、恭介のエッチっ!」

要脳内補完。


 
 
 




    
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