『旅に出ます、探さないでください』






理樹が自らの机の上にそんな書置きがあるのを見つけたのは、とある休日、昼食を食べ終え食堂から戻ってきた時のことである。
名刺程のサイズのルーズリーフの切れ端に二言ばかり書かれたそれの最後には、『棗恭介』という名前が記されている。
記憶の中にある彼の筆跡と合致しており、理樹はこれが本人の肉筆であることを確信し、さっと目を通すと、すぐに書置きから視線を上げた。

「どうした、理樹?」
「はい」

一緒に部屋に来た鈴に、その書置きを手渡す。
同じく一緒に戻ってきた真人と謙吾も何事かと、鈴の肩越しからそれを見る。

「だってさ」
「そうか。で、今から何するんだ?」

鈴はそう言って、大して読みもせず、丸めてゴミ箱へと放り投げた。
それはゴミ箱の縁に当たり、部屋の隅に転がっていった。

「そうだ理樹、この間の漫画の続き、貸してくれないか?」
「あ、いいよ」
「さて、腹ごなしにスクワットでもするかな」

謙吾と真人もまるで何も見なかったかの様に振る舞い、各々食後の小休止へと入る。
鈴も手持ち無沙汰なのか、部屋をきょろきょろと見回すが、己が捨てたゴミの処理をしようという気はないらしい。
というよりも、既に意識の外へ放った様だった。
仕方ないと言わんばかりに溜め息を吐き、理樹は鈴が外した紙クズを拾い上げる。
そして、ゴミ箱へきちんと捨てた。

「ゴミはちゃんとゴミ箱に捨てないとね」
「あぁ、すまん理樹」
「さんっ、わりぃなっ、よんっ、ごっ」
「すまんな、チェハとウニョン、イナの三角関係の行方が気になって仕方がなくてな」

ガラッ!

「お前らさすがにあんまりじゃないかっ!? 少しは心配しろよっ!」

そんな会話をしたところで、何故か恭介が窓から現れた。

「あ、恭介おかえり」
「あぁ、ただいま……じゃねぇよっ! 鈴っ!」
「なんだ」
「お兄ちゃんの残した大事な書置きを三秒で投げ捨てるとは、どういうことだっ!」
「果てしなくどうでもいい」
「ショックっ!」

そう叫びながら、落胆ぶりを表したかったのか、倒れこみながら部屋内に転がり込んでくる。
しかしまだ言い足りないのか、がばりと起き上がると、今度はスクワットをしている真人へと食ってかかる。

「真人っ! 親友が何も言わず急に旅に出ると言っていなくなったんだぞっ! 暢気に筋トレなんかしてる場合じゃないだろう!?」
「ひゃくじゅういち、ひゃくじゅうに、ひゃくじゅうさんっ」
「てかはえぇ! ついさっきやり始めたばっかじゃねぇかっ!」
「ぶわっはっは! この漫画、やはり面白いな!」
「謙吾も漫画なんか読んでないで俺を心配してくれよ!」
「話は後にしてくれ、今はお前の動向よりも漫画が読みたい季節でな」
「季節ってなんだよ!? つーか俺の失踪どんだけ価値低いんだよっ!」
「お前、どこぞの芸人みたいなツッコミしてるな」
「参考にしてるんだよ、だって旅芸人だもの」
「そういう旅じゃねぇよ!!!」

暖簾に腕押し、糠に釘。
こいつら本当に幼馴染なのか、俺の親友なのか。
どれだけ言っても相手にされず、ぜーはーと息切れをする恭介の目に、薄っすらと涙が浮かぶ。
と、そこで何か閃いたかの様に理樹が目を見開き、刹那、顔を綻ばす。
鈴、真人、謙吾に目配せをする。
そして同様に三人も、にぃ、と笑った。
高純度なアイコンタクト。
一寸のブレもなく意思疎通を可能にするのは、十数年から為る、固き絆。
確認する様に一つ頷きを入れ合った後、膝に手をついて呼吸を整える恭介に、理樹はそっと声を掛けた。

「恭介……」
「な、なんだよ、理樹」
「ごめんね、僕らも少しからかいすぎたよ」
「え……」

暫し驚きの表情をした後。

「……そ、そうかっ、そうだよなぁっ!」

安心しきった様に頬を緩ませて、恭介は心に残る不安を吐き出す様に、大きな声を上げた。
それを見やりながら、理樹は教科書に載るのではないかと思われる程のアルカイックスマイルを顔に貼り付ける。
理樹の背に、喧しい声に顔を顰める鈴が隠れていることなど、恭介がわかるはずもなく、そのまま声を張り上げながら続けた。

「お前ら、もう少し加減ってものをわかってくれよな! 俺、少し泣きそうだったぞ?」
「ははっ、ごめんごめん」
「ったく、心臓に悪いぜ」

機嫌をすこぶる良くした恭介が、にやにやと笑っている。
気持ち悪い……。
相変わらず理樹の背に隠れながらそっと兄の様子を窺う鈴は、思わず心の中でそう漏らした。
それを言ってしまえば、たちまち恭介の機嫌はどん底に落ちていってしまうことは一応ながら理解していたので、外に零すことはなかったが。
なので、くい、と理樹の上着を引っ張り、無言の主張をする。
早くしてくれ、あいつを、大人しくしてくれ。
それを敏感に感じ取った理樹が、アルカイックスマイルを解き、苦笑を漏らす。
わかったよ、鈴。
機は熟した、と言わんばかりに、再度笑顔を貼り付けて、理樹は恭介に言った。

「それでね、恭介」
「ん?」
「僕ら、恭介がどんな旅をしてきたのか、聞きたいんだけど」
「……は?」

理樹の眩いまでの笑顔を前に、恭介の表情が凍りついた。
何を、何を言っているのだ、お前は。
思考が瞬く間に固まっていく。
しかし、溶かす暇も与えないと言わんばかりに、ここぞと言わんばかりに、鈴がずいと恭介の前に出てきて、言う。

「そうだ。朝ごはんを一緒に食べたから、五時間くらいか? お前がどこに行って、何を見て、何を聞いてきたのか、あたしはとても知りたい」
「り、鈴……」

謙吾、そして真人もそれに続く。

「どうした? わざわざ書置きまでして、一人旅しに行ったんだろう? 土産話の一つや二つ、親友の俺達に話してくれてもいいだろう?」
「け、謙吾……い、いや、あれはな」
「おぉ、面白そうじゃねぇか。恭介、聞かせてくれよ」
「ね? 僕ら、恭介の旅の話楽しみにしてたんだ。聞かせてくれないかな?」

冗談だってわかってるだろう、わかってて言ってるだろうお前ら!
恭介は胸中で叫んだ。
幼馴染達の顔は、とても晴れやかだった。
まるで子どもが昔話をせがむ時の様に、きらきらと輝いている。
ど、どこでそんなスキルを身につけたんだよ!
恭介は喜び、そして嘆いた。
こいつらはやっぱり、俺の昔なじみの親友だ。
けど――

「今そんなコンビネーション発揮するんじゃねぇよ!」
「えっ?」
「何でだよ! 何でこんな理不尽なんだよ!!」
「き、恭介っ?」
「もういいっ、俺の今の気持ちをわかってくれるのはお前らじゃねぇ!!!」

そう吐き捨てて、恭介は部屋を去っていった。
ちゃっかり制服の中に上靴まで準備している辺り、さすがと言うほかなかった。
騒ぎの元がいなくなり、しん、と部屋が静まり返る。
四人は呆けた様にそれぞれの顔を見合わせ、暫し経ってから、ぽつりと、鈴が呟いた。

「結局あいつ、何がしたかったんだ?」
「ただの暇つぶしでしょ?」
「そうか。で、これから何するんだ?」
「そうだ、チェハがウニョンを突き放したんだったっ。うおぉ、恭介のせいで時間を食ってしまった!」
「さて、俺も筋トレの続きするか」

麗らかな昼下がりを、各々が満喫した。



恭介が理樹の部屋を出た一時間後、能美クドリャフカの部屋で同類の書置きが発見された。
理樹達の時よりは些か騒ぎになったが、発見して数分後に呼び出された来ヶ谷唯湖によって、同じくゴミとして処理された。
同一人物による手口と見られたが、恭介が如何にして女子寮に忍び込んだのかは、明かされることはなかった。

『旅に出しておいた。探さなくていいぞ』(午後四時二十三分、直枝理樹の携帯電話が受信したメールより)

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