5月になってようやくまともに降った雨は、冷たかった。
桜が満開な頃は、姿の1つも見せなかったというのに。
空は薄暗い雲で覆われ、アスファルトが雫でねずみ色に染まっていく。
天候に感情を左右されるなんて馬鹿馬鹿しい……そう思いつつも、私は些か気分が沈んでいくのを感じずにはいられない。
太陽がさんさんと顔を出していたからって、気が晴れるわけではないというのに。
どうせ、いつだって変わらない。
今日も、明日も、そしてこれからも……私の生活は、変わらない。
くだらないとわかっていても、その滑稽なしがらみから、逃れられないのだ。
敷かれたレール。
踏み外すことの出来ない道。
体を茨で散々切りつけられながらでしか通れない、獣道。
私が歩く場所は、そこにしかないのだ。

「……?」

1階の廊下からふと外を覗き込むと、雨で霞む中庭に、人の姿見えた。
無数に落ちる雫と結露する窓ガラスのせいで、顔はよく見えない。
だが、少なくとも2つの事実だけははっきりと確認できた。
透明なビニール傘の向こう側に、腰元まですらりと流れる黒髪が見えることから、女子生徒だということ。
そしてもう1つは。

「……まったく」

私が注意をしなければならない場所に、彼女が立っているということだった。





































水煙










































校舎の中から見ていたよりも、雨足は弱かったらしい。
昇降口から聞き取った雨音から、私はそんな感想を胸中で漏らす。
しとしと……擬音で表現するのならば、これが正しいだろうか。
雨粒もそれ程大きくないけれど、厚い雲がかかる空を見る限り、当分陽の目を見ることは出来そうにない。
少なくとも、今日はずっとこんな天気が続くに違いないだろう。
ガラガラになった傘立てから自分の黒いワンプッシュ式の傘を取り出し、外に出る。
今日はさすがに部活動も外では行っていないらしく、いつもの威勢の良い声は聞こえてこない。
ぽつぽつと生徒の姿を見かけるものの、ほとんどが校門の外に出て行くか、寮に帰るためか北校舎へと入っていく者ばかりだった。
そんな中、私は渡り廊下を左に曲がって、中庭へと入っていく。
件の女生徒は、未だ囲いの中の芝生の上にぽつんと立っていた。
うっそうと生い茂る木々を、何をするでもなく、ぼんやりと眺めている。

「……そこは、昼食時以外は立ち入り禁止よ」

囲いギリギリまで歩み寄って注意を促した私の声は、もしかしたら震えていたかもしれない。
この距離にまで来て、ようやく女生徒の顔をはっきりと見ることが出来た。

「……すみません」

彼女が、小さくそう呟いた。
左目の瞳が、私を射抜く。
その、雨と同調する様な、沈んだ瞳。
隠された右目は、こっちに向いているのだろうか……私は身震いした。
人の視線でこれ程恐怖を覚えるのなんて、いつ以来だろうか。
それは、自身に何か危険が迫るとかいう類の恐怖ではなかった。
この女生徒は、その無表情の奥に、どれだけの暗い感情を溜め込んでいるのか……触れてしまえば霧散してしまう様な、まるで蜃気楼の様に薄っぺらい存在感しかない彼女の儚さが、私の脳内に何かしらの警鐘を鳴らしていた。

「……すぐに、出て行きますので」

まるで機械の様に無機質な響きの声を出しながら、もう一度、木々に視線を向ける。
ここに、何か思い入れがあるのだろうか。
それは、儀式の様に。
己の乾いた心に深く、深く刻み付けるかの様に。
彼女はじっと、それを眺めていた。

「……少し、時間いいかしら?」
「……ぇ?」
「別に呼び出しとかではないの……ただ、少しだけ、話がしたくて」

自分で自分がよくわからなかった。
確かに、彼女は知っている。
けれども、それは別段会話をする仲とかそういうものではなくて、本当に『知っている』だけ。
何という名前で、どこのクラス、部活動に所属していて……そして、最近どういうことがあったのか。
井戸端会議並みの情報しか、私は持っていなかった。
そんな私が、目の前の女生徒に話をしようと持ちかけた。
何故なのか。
……それは、きっと。

「……私は、構いませんが」
「そう……それじゃ、とりあえず場所を変えましょう」

彼女の闇に、私の中のそれが共鳴したからに違いなかった。






******






「何か飲む?」
「いえ、けっこうです」
「そう……」

暖かい場所を求めた末に辿り着いたのは、食堂だった。
もし混んでいる様ならばそそくさと立ち去ろうと思っていたが、席は1つとして埋まってはいなかった。
厨房の方では何人かのおばさんの姿を見ることは出来たが、がらんとした堂内はやはり静かなもの。
特に渋る理由もなく、私達はここの一角を暫し借りることにした。

「……」
「……」

重い沈黙。
私が話をしようと言い出したのだから、私が率先して話題を提供するべきなのだろうが、如何せん何を話していいのかわからない。
それじゃぁそもそも何故そんな誘いをしたのだろうかと問われれば、それもよくわからないのだから、どうしようもない。
同族意識だったのか。
お互いに黒い感情を抱える者として、何か感じることがあったのか。
半ば反射的に出た言葉の裏に、無意識下で揺れ動く何かがあったとしか思えなかった。
でなければ、あんな事を口走るはずがない。
冷酷で、無慈悲で、最低な私がそんな、表面だけの同情をくれてやる様な真似をするはずがないのだ。

「……二木さんは、何か一生懸命になれることって、ありますか?」

会話の始まりは意外に、そして唐突だった。
そちらから話を切り出してくるとは思いもしなかったが、とりあえず私の名前は知っているらしい。
確かに、学校での知名度は相当なものだろうと思う。
良い意味でも、悪い意味でも。

「一生懸命、ね……」

あるにはある。
だが、それを言うことは出来やしない。
誰にも知られるわけにはいかない……けれど私にとって、とても大切で、守るべきことであるのは間違いなかった。

「あるわよ、私にも……具体的に話すことは出来ないけれど」
「そう、ですか……ではもし、その一生懸命になれるものがなくなってしまったら、二木さんはどうしますか?」
「……その問いに、あなた自身は答えを持っているの?」
「……」

彼女は答えない。
答えられるわけがなかった。
でなければ、そんな暗い表情をしながら問うわけがないのだから。
でもそれは、私にも言えることだった。
大切なこと……それが、失われてしまったら?

「……わからないわ」

結局、そう言うしかなかった。
失われそうになったことは度々あるけれど、結局今日に至るまで、それが現実と化すことはなかった。
それが私の努力の甲斐あってのことなのか、それともあいつらにはそれを本気でする気がなかったのかはわからないが。
いずれにせよ、私がこれからもその為に心を砕いていくことだけは、確かだった。

「……私にも、わかりません。そうなってしまった今ですら、どうすればいいのかわかりません」
「……」
「生きる意味というものが必要なのだとすれば、私にはもう、それはないのかもしれません」

そんなことは……。
そう言いかけて、私は口を噤んだ。
他人からではなく、自分の中にその意味とやらを持つ必要があるとするのならば、私にも彼女と同じ事が言えるかもしれなかったから。
失ってしまったら、私は何の為に生きていくのだろう。
あいつらにとっては、家の繁栄とやらに決まっているけれど……私は?
私自身にとっての生きる意味は、あるのだろうか。

「きっと二木さんは以前の私と同じくらいに、ある1つのことに自分を費やしているのではないか、と思います」

彼女も感づいていた。
私達が、どこかしら同じ匂いを持つ者同士だということに。
血塗られ、薄汚れた私に比べると、彼女は色々な面で綺麗すぎたが。
だからこそ、彼女はその落差に耐えられなかった。
失われたことによる空虚感は、彼女の心を枯らしてしまった……生きる気力さえも、虚空の中に消え去ってしまったのだ。

「生きていればいいこともある……なんて話もあるわよ?」
「どれだけ光を掴める可能性があろうとも、あれ以上の強い光を見ることは、出来ないでしょう」
「死んだらそれで終わり……あなたは、後悔しない?」
「これから一生、眩しすぎた私と比較していくことで味わう後悔に比べれば」

何を言っても無駄だった。
枯れた大地に、オアシスなどなかったのだ。
彼女の中には、広大な1つの泉しか存在していなかったのだろう。
それが枯渇してしまったのなら、彼女の心は荒れ果てていく過程すらもなく、一瞬にして瑞々しさを失ったに違いない。

「そう……でも、あえて言うわ。あなたには、生きていてほしい。私と違う様で、似ている心を持つあなたには」

彼女を見据えて、そう言ってやった。
さすがに、面と向かって『好きにしなさい』などと言える程に鉄面皮ではない。
それは『死ね』と言っているに等しく、そして目の前の女生徒は、本気でそれをやろうとしているかもしれないのだから、一層言葉は選ばざるを得なかった。
そうして結局選んだのは、彼女の意思とは逆のもの。
苦しみ悶えながらも生き続けろ……少なくとも、死を促すよりはマシではないだろうか。

「……」

彼女の表情に、変化はない……一瞬、その金色の瞳が揺らいだだけ。
ゆっくりと肺の中の空気を吐き出し、彼女は立ち上がる。

「……生きる意味を証明できなければ、死んでいると同義だと思いませんか?」

私を見下ろしながら、淡々とした口調でそう言って。
彼女は、踵を返した。
もう、話すことはないということか。
何か声をかけよう……と思ったが、何を言えばいいのかわからない。
ほんの少しだけの会話。
わかったことは……彼女がどうしようもないくらいに、絶望しているということ。
絶たれた望みと書いて、絶望。

「……少なくとも、私はそうだと思っていますので」

その一言を最後に、彼女は食堂を去った。
それが、私が最後に見た彼女の姿だった。







******







あの時とは違い、晴れ晴れとした空が広がっていた。
ローファーが地を踏むごとに、ちゃりちゃりと玉石が小奇麗な音を奏でる。
陽が照っているというのに、吹く風は冷たくて、夏服を纏う肌に少し鳥肌が立つ。
衣替え期間を過ぎたとはいえ、初夏にはまだまだ程遠い。
うっすらと流れる線香の匂いに包まれながら、目的の場所を探す。
そんな仲ではないのは間違いないのに。
話したのは、あの時だけだったというのに。
もしかしたら、私がその結末へと追いやってしまったのかもしれないという負い目は少なからずあって……自然と、彼女の元へ赴こうという意思は固まっていた。
もちろん、その場の勢いで並び立つ墓石の中をイチから探していこうなどということをするわけもなく、彼女の家にまで電話をかけ、場所はきちんと聞いている。
ここに来たことはないので些か手間取りそうではあるが、長時間探し回るということはないだろう。

「……」

そう思っていたら、すぐに見つかった。
目印があったのだ。
道着を来たをした、白髪の青年という目印が。
何とも言いがたい表情をしながら、合掌していた。
何となく近づきがたい雰囲気を感じて、立ち止まり、彼の墓参りが終わるのを待つことにする。
1分程であろうか、やや長い時間合掌した後、彼は、ゆっくりと立ち上がった。
柄杓を突っ込んだ水桶を持って、こちらへと向かってくる。
その顔は無表情に近いものであったが、やはりどこかしら哀愁が漂っている。
そこで私も、再び足を動かし始めた。
玉石の擦れる音が私の下からも、彼の方からも鳴っている。
そうして、2人の距離が、徐々に詰まっていって……。

「……まさかお前が来るとはな」
「意外かしら?」
「少なくとも、お前らの間に交友関係があるなどとは知らなかったな」

そういえば、最近着始めたあの妙なジャンパーはどうしたのだろう。
さすがにここに着ていくには不相応だと思ったのだろうか。
問題集団とはいえ、それなりの常識は持ち合わせているということか。

「……あなたが気に病む必要は、ないと思うわよ」

前置きを飛ばして、言いたいことを真っ先に口にした。
止められるわけがない。
彼女の心は、既に闇に飲み込まれていたのだ。
彼が相談相手として抜擢されたという話も、度々2人でいる光景を見たという情報も入手していた。
けれど、そんな簡単に解決できる問題ではない。
事実だけ見ればとても単純かもしれないけれど、それによって彼女が失ったものというのは、計り知れない。
中途半端な正義感では、どうこうできるものではなかった。
例え彼が、真剣に彼女を掬い上げようと思っていたとしても。
話を聞く程度で、濃密な闇に光が差すわけがなかったのだ。

「……俺の力が及ばなかったせいだ」
「……まぁ、そう思うのならそれでいいけれども」

別に私の考えを強要させる気はない。
彼が自責の念に駆られているというのであれば、それでいいだろう。
その気持ちは、わからなくもないから。

「……1つ、答えてくれないかしら?」
「……何だ」
「あなたは彼女の事を、本気で救おうと思っていたのしから?」

話し相手になるだけという時点で、彼女の心を正確に汲み取れていなかったのは事実。
むしろ、それを理解しろという方が酷だろうか。
いや、もしかしたら、それを察するために手始めに設けたものだったのかもしれない。
いずれにせよ、彼だって、嫌々彼女の相手をしていたわけではないだろう。
こんな大役、少しでも嫌だと思う人間ならば、何としてでも回避しようとするはず。
その役を彼が買って出たということは、それなりに前向きな姿勢があったということだ。
とすればそこに、どんな想いがあったのだろうか。
彼らお得意の、妙な正義感が燃え上がった?
何となく見過ごせなかった?
それとも他の理由?
彼女が負った外傷と心の傷はそう簡単に癒えるわけがなく、かなりの時間を必要としていたことは言うまでもない。
それを彼は、本気でやり遂げようとしていたのだろうか。
そこまで面倒を見て、彼女に笑顔を取り戻そうと考えていたのだろうか。

「……」

彼は黙ったまま、私の横を通り過ぎていく。
たなびく道着。
桶の中でぴちゃりと跳ねる水。
完全にすれ違うその瞬間、彼は、小さく呟いた。

「……もう、既に終わったことだ」

玉石の音が、小さくなっていく。
彼がこの場を去っていく。
私の他に、人は見当たらない。
まるで、私だけが1つの世界に取り残された様な気分だった。
そんな、不可思議な心持ちのまま歩を進め、彼女の元へと近づく。
黒色の墓石。
あの綺麗な髪と比べれば、残念な色合いをしていた。

「……望んだ結末は、いかがかしら」

彼女にかけた第一声だった。
場所を確認してから霊園で諸々を借りようと考えていたが、その辺は後でいいだろう。
それよりもまず、言いたいことがある。
今となっては既に遅いけれど。
それでも彼女に、伝えたかった。

「あなたの質問、あの時は答えられなかったけど、今なら言えるわ」

墓石を撫でる。
やはりというかなんというか、彼女は冷たかった。

「多分、私はそれでも生きていくと思う。死ねないと思う」

私の人生は、私の下にはない。
狂信的な血筋によって縛られ、自害することも許されなければ、好きに生きていくことも許されないだろう。
少なくとも、私の代わりとなる子を身篭り、出産するまでは。
私の今の生きる意味は、あの子を守ること。
どんな手段であっても、あの子の心を守ること。
でもあの子を失ったとしても、私は彼女の様にはなりはしない。
生きる意味がなくとも、生かされ続けるのだから。

「自分にはなくとも、他人から証明を埋め込まれてしまえば、人は死ぬことは出来ないのかもね」

どことなく似ていた。
互いに潜む心を感じ合った。
そんな私達の、決定的な違いは。
自分と言う個人が、どれだけ尊重されているかだったのだ。









敷かれたレール。
踏み外すことの出来ない道。
体を茨で散々切りつけられながらでしか通れない、獣道。
私が歩く場所は、そこにしかないのだ。
私がどんなに壊れようとも、歩かされる場所は、そこしかないのだ。







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古式はCGのせいか、雨と合いますよね。
ところで、エクスタシーでは古式シナリオは攻略できないのですか?
正直個人的には、ざざみよりも(ry



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