意識が、朦朧としていた。
何も、考えられなかった。
何が起きたのか。
どうしてこんなにも体が痛いのか。
何も、わからなかった。
『横転したバス』
ぬる、と顔に何かが滴っている。
生温かいそれは空気に触れ凝固しかけるが、さらにその上に脈々と流れ落ち、それをさせない。
熱い。
いや、寒い…?
温感が全くわからない。
思考が上手く続かない。
私は今どういう状況なのだろう?
立っているのか。
寝そべっているのか。
『血』
私は、どこにいるのだろう。
私は、何をしていたのだろう。
体を動かせない。
痛い。
目を開けるのも億劫だ。
唯一止める事が不可能な呼吸を、絶え絶えにする。
呼吸する度に、鼻につく臭い。
どこかで、嗅いだ事のある臭い。
『漏れ出すガソリン』
パチパチと何かが弾ける音が聞こえる。
誰かの、うめき声が聞こえる。
あぁ、もうわからない…。
何だか、眠くなってきた様な気がする。
このまま、ゆっくりとまどろみに体を委ねたい。
ここがどこだか、私が何をしているのかすら全くわからないけど。
もう、どうでもいいか…。
全てを投げ出して、この意識を断ち切ってもいいかもしれない…。
痛覚が消えていく。
肌の感覚が消え失せていく。
『微弱な鼓動』
妙な浮遊感を感じた。
あぁ、何だろう…。
天からの使者でも来てくれたのだろうか…。
この苦しみから救ってくれるのだろうか…。
天使でも見えるだろうか、とあれ程億劫と感じていたのに、薄っすらと目を開けてみた。
むせ返る熱気とガソリンの臭いが立ち込める中。
あの人の顔が、見えた様な気がした。
『絶対、助けるから』
* * *
「おっはよーっ」
「おはよう」
朝。
食堂。
挨拶を交し合う寮生達。
トレイに乗った朝食を、寝惚けた脳内を起こす様にゆっくりと口に運ぶ。
いつもの風景。
何ら変わり映えのない、至って普通の、寮生達の朝の始まり。
その一角に、睦美の姿はあった。
いつもの席。
空いている2つの席。
湯気の立ち込めるご飯や味噌汁に手を付けようともせず、睦美はただぼんやりと席に座ったまま寮生達の姿を眺めていた。
そこで、背後からかかる元気な声。
「おはよう、睦美ちゃんっ。今日も相変わらずお早いこと」
「…おはよう、高宮さん。というか何で名前な上にちゃん付け…」
「いやー、そっちの方が可愛らしいかと思ってー」
「何か変な感じだからやめてください…」
「はいはい」
高宮の到着。
気だるげな朝の雰囲気を物ともせず、陽気な雰囲気で空いている1つに着席。
その姿を睦美は見やりながら、苦笑を零す。
そして、続く様にもう1人も食堂へとやってくる。
勝沢だ。
未だ眠いのか、目をぐしぐしと擦りながら睦美達の所までやってくる。
「うーす」
「おはよう勝沢さん」
「おいっす、勝沢」
「うん…高宮、あんた元気ね」
しゅばっ、と手を挙げて挨拶する高宮に鬱陶しげな目を向けながら、最後の1席に座る。
睦美の両隣の席が埋まった。
いつもの3人が、いつもの朝を迎える。
「やっと…」
「ん?」
「皆、揃ってきたね」
朝食を食べながら、睦美が再び周りの生徒達を見る。
その中には、睦美達と同じクラスの生徒もいた。
むしろ、睦美の視線は同じクラスの生徒達に注がれていた。
同じ様に仰ぎ見た高宮が、目玉焼きに醤油を垂らしながら口を開く。
「まぁあれから大分日が経ったしねぇ……そりゃ戻ってくるでしょ」
「何ヶ月も入院が必要な重傷な人は数えるくらいしかいなかったそうだしね」
「うん」
2人の言葉に、睦美が満足げに微笑む。
6月の、あの日。
修学旅行当日。
睦美達を乗せた移動中のバスが、崖から転落した。
横転したバスから火の手が上がり、さらにガソリンが漏れ出していた。
火が引火すれば、そこら一帯は瞬く間に爆発しただろうと言われている。
それ程、あの時は絶体絶命な状況だったという。
それこそ、生還者が残る事さえ困難だっただろうと言われる程。
しかし、奇跡と言う物は起こるもので。
死者はゼロ。
バスに乗っていた運転手、教師、生徒…皆無事に救出されたのである。
バスに乗っていた全ての人間が、事故現場から離れた場所に集まっていたという不思議を残して。
危険地帯にいる生徒達を、安全な場所まで移動させた人がいるのか。
だとすれば、それは誰なのか。
この一介の事件の救世主は誰だったのかと、一時期マスコミも含め各地で物議が醸し出されたが、それもいつの間にか立ち消えた。
そして、当人達の間では、そんな事などどうでも良かったのだ。
皆が生きていた。
ただ、それだけで良かったのだ。
「まぁ、やっと普通の学校生活に戻ってきたって感じね」
教室が生徒で埋まる光景でも想像したのか、高宮が感慨深げに頷く。
ほぼ全員、命に別状はされないとされた中で、この3人は特に怪我が軽い方だった。
座っていた場所が良かったのか、それとも単に運が良かったのか…。
夏休みに入る頃には、既に退院していた。
けれども、彼女らは決して晴れた顔で夏休みを迎える事はなかった。
未だ病院で苦しむ同級生が、まだまだ残っていたのだから。
とても、浮かれて海に行こうなどと考える事は出来なかった。
大丈夫だと聞かされても、不安を拭う事は出来ず。
皆の無事な姿を祈って日々を過ごし。
夏休みの間、1人、また1人と復帰の報せを受け。
新学期には、30人近くもの生徒が教室にいた。
そして、今でも、順調に完治した生徒が日を追うごとに戻ってくる。
嬉しい事この上ないだろう。
「感激するのはいいけど、早く朝ご飯食べましょう。時間ないわよ」
「えっ?」
感動に浸っていた2人は、勝沢の言葉を耳にし、周りを再度見渡す。
食堂の席に座る生徒達は、まばらになっていた。
そして、睦美達のトレイには、一口二口しか減っていない朝食。
勝沢だけは、もうそろそろ食べ終えそうだった。
「や、やばっ。睦美、速攻で食べるわよっ!」
「う、うんっ」
急いでご飯を掻き込む2人。
そんな2人を横目に、勝沢は小さく微笑んだのだった。
* * *
ガラッ。
「おぉー……やっぱ改めて見ると、て感じね」
「うん」
教室のドアを開け、睦美と高宮は感嘆の声を上げた。
教室内は、がやがやと生徒達の会話で喝采に溢れていた。
今は皆席を立ち、好きな場所にいるため、誰が来ていないか、どの程度席が埋まっていないのか把握できない。
それ程、睦美達のクラスメイトは学校に復帰していた。
それでもまだ、あの事故以来教室に姿を現さない人がいる事は確かだったが。
「残りの人は大丈夫なんかねぇ…」
「怪我の治りは至って良好らしいわよ、ただ長い間ベッドに寝てたから、リハビリとかそういうのあるんじゃない?」
「なるほど…」
空席の持ち主の近況を話しつつ、机に座る。
「早速勝負だ、謙吾っ!」
そこで、一際大きな声。
あまりに聞きなれたその声ではあったが、彼女らは声の聞こえた方へと顔を向ける。
もちろんそこには、彼らが。
「馬鹿か、バトルをするには足りない物があるだろう」
「おっと、オレとした事が大事な事を忘れてた」
「もう少し我慢しておけ」
謙吾と、真人。
その周りに、理樹達が。
リトルバスターズは、相変わらず、騒ぎの中心地だった。
「……あの人達も、相変わらずだねぇ」
「うん…」
「これであの人が復帰すれば、完全に元通りね」
「棗先輩だね」
「そうね」
理樹達を眺めつつ、そこにいるはずの、いない人物を憂いだ。
棗恭介。
リトルバスターズ唯一の3年。
そして、修学旅行の一件において、最も重症だった人物。
3年の彼が何故バスに乗っていたのか。
まず浮かぶ疑問ではあったが、それは大した問題ではなかった。
教師含め、この学園の者は皆顔を揃えてこう言ったという。
『なるほど』、と。
つまりは、3年の恭介が2年の修学旅行に参加するという行動は、彼の日頃の行動からすれば容易に想像できるものだったのである。
そして、本来当事者でない彼が最も危険な状態に陥ったのは、不運としかいい様がないだろう。
最も、彼がいた事によって今の日々があるわけなのだが…。
「集中治療室に運ばれたんでしょ?大丈夫なの?」
「まぁ、彼らの様子を見る限り大丈夫そうではあるけれど…」
そう言って、3人は再び彼らを見る。
「火渡り修行なんてどうだ?」
「火!?……うわあぁぁーっ!やめてくれえぇぇーっ!」
「うわ、真人がすごい昔の事を思い出して苦しんでる…」
相変わらず教室の一角で騒ぎ立てている。
そこには、暗い雰囲気は感じられなかった。
「まぁ、あんなに元気なら大丈夫そうね…」
「ええ………杉並?」
勝沢が、睦美に声をかける。
睦美は、ぼぅっと理樹達は見つめていた。
勝沢の声に、反応しない。
「ちょっと、杉並」
「……え?」
ようやく反応するも、その返事は酷く虚ろ。
その様子を見て、高宮はニヤリと笑い、勝沢は訝る。
擦り寄る様に高宮は睦美に近寄り、肘で睦美を突く。
「なぁにぃ?また直枝?あんたも相変わらず熱いわねぇ〜」
「ち、違うよっ」
「どうしたの?何か見つけた?」
「うん、何ていうか…」
おちゃらける高宮とは違い、勝沢が真剣な表情で問う。
睦美が、再度理樹達を見つめる。
神妙な、顔つきで。
その表情を見て、ふざけていた高宮も顔を締める。
「何よ、あんま不吉な事言わないでよ?」
「ううん、そういうじゃなくて………何か、直枝君達、前と雰囲気違くない?」
「雰囲気ぃ…?」
2人もまた彼らを見つめる。
「だがファイヤーダンスは見るのは楽しそうだが、やりたくはない」
「まぁ、そりゃそうか」
「じゃあ缶ケリはどうですかっ」
「それもやっちゃったしなぁ…」
彼らののんびりとした会話に耳を傾けつつ、表情も窺う。
が…。
「何も変わってないと思うけど?」
高宮が何て事なしに言う。
睦美がその言葉で少し気落ちする。
今度は、もしかしたら、という期待の目を込め勝沢を見る。
しかし。
「私も、前と変わらない様に見えるけど…?」
「そっか…」
勝沢も、睦美の言う違いを見つける事は出来なかった。
2人に否定を告げられ、睦美は軽く顔を俯かせる。
「あれじゃない?怪我したから顔の形でも変わったんじゃない?」
「高宮、それは冗談としてどうかと思うわよ」
「そ、そうね…」
高宮と勝沢の掛け合いを流しつつ、睦美はやはり理樹達を見つめ続けていた。
彼女は、やはり彼らに感じる違和感を払拭できなかった。
特に、理樹……そして、鈴。
この2人は、明らかに1学期とは変わったと感じずにはいられなかった。
そしてそれは、正しかった。
彼らは、変わった。
誰も知らない、夢の様な世界。
その中で、彼らは成長を遂げていた。
それは、見える様で見えない、ちょっとした変化。
しかし、それは確実に彼らを良い方向へと変えていた。
それを気づける人物は、リトルバスターズ以外にどれだけいるだろう。
もしかしたら、睦美だけかもしれない。
輪の中に入れずとも、ただ、彼らをずっと見続けた彼女だからこそ、気づけた事だったのかもしれない。
睦美自身、何が変わった、と具体的に言う事は出来なかった。
だから、『雰囲気』と表現した。
だがしかし、その『雰囲気』の違いを如実に感じていた。
何と言う事は出来ないが、確実に何かが違う。
いつもと違う感覚……違和感。
睦美は、今のリトルバスターズに、違和感を感じていた。
それは、彼女のイメージ、記憶の中のバスターズと、違う姿という事。
そして、最も変化を感じる理樹に、心をざわつかせていた。
「よーし、席着けー。出席取るぞー」
そこで、教師が入ってきた。
HRの時間だ。
「それじゃ、また後で」
「ええ」
「うん」
高宮と勝沢が自身の席に戻っていく。
教師がとんとんと出席簿を教卓に叩きつける。
「……」
いつも通りの朝の中。
睦美の胸の内に、その違和感はしっかりと植えついていた。
web拍手を送る
面白かったら押してください。