「……で?どうしたのだ?」

ベッドに腰掛ける様に促し、唯湖は早々に本題に入り始める。
足を組みながら腰掛けるその様は、やはり高校生とは思えぬ優雅さを匂わせていた。

「……」
「鈴君?」
「いや、何と言うか……来たはいいんだが、何を相談すればいいのか、自分でもよくわからない」
「……」

鈴の言葉に、唯湖はふむと小さく鼻から息を漏らす。
可愛い子猫がわざわざ1人でやってきたということで、悪ふざけの1つや2つしたいところではあったが、その落ち込んだ雰囲気がそれをさせる事を憚らせる。
その言葉通り、自身が抱えている感情を掴めていないのであろう。
そして、そんな心の問題を解きほぐすことは、唯湖にとっても難しい問題であった。

「……ならば、君がここに来ようと思ったきっかけを言ってくれないか?」
「きっかけ?」
「そうだ。どうして困っているのかわからなくとも、君の足を私の部屋に向ける出来事があったのだろう?それを教えてくれれば、何か見つかるかもしれない」
「……」
「……」

カチコチと、壁に掛かる時計の音が大きく聞こえる。
2人は息を潜めたかの様に押し黙り、秒針の音だけが時の流れを克明に知らせている。
何か重いものが降りかかってきたかの如く沈んだ空気が部屋内を支配するも、唯湖はひたすら聞き手に徹し、口を開こうとはしない。
それを肌で感じ取ったのだろう、静まり返ってから秒針がちょうど2周目に突入しようかというところで、鈴が、その薄い唇を動かした。

「……理樹が、だな。杉並さんとメールして、楽しそうなんだ」
「杉並君というのは、私達のクラスの?」
「そうだ、杉並睦美さんだ」
「そうか……すまない、話の腰を折ってしまった。続けてくれ」
「それで、きょーすけ達が、『付き合えばいい』って理樹に言ってて……それを聞いてたら何かムカついて、ここに来た」
「……それだけ、か?」
「うん、それだけだ」

なるほどな……と頷く唯湖であったが、その表情は些か厳しい。
経緯を聞いた彼女は、その相談内容が自身にとって扱いきれないものであることに気づいていた。
常識的に捉えれば、答えはすぐに導き出せる。
しかしそれは知識上の解でしかなく、唯湖はその感情を経験的に理解していなかった。
理解できていないものを、外聞だけの判断で助言してしまうことは、彼女には出来なかった。
彼女の中で『感情』とは特別なものであり、それを軽々しく扱うことを恐れていたのだ。

「……申し訳ないが、私が鈴君にしてやれることはない」
「……そうか」
「だが、これだけは言っておこう……君は、気づいていないだけだ。そして、君ならばきっと気づくことが出来る」
「?……すまん、よくわからん」
「いや、わからないのならそれで構わないさ。他のメンバーに相談してみるといい。この手の話は、そうした方が英断だろう」
「わかった、ありがとうくるがや」
「こちらこそ、何もしてやれなくてすまんな」

わずか10分足らずで、鈴は部屋を去った。
薄い笑みで送った後、唯湖は椅子から立ち上がり、窓を全開した。
冷たい秋の夜風が、程よく暖まった部屋の空気を追い出す様にして入り込んでくる。
窓のサッシに手をかけ夜空を見上げる唯湖の顔に笑顔はなく、その瞳の暗さは、決して宵闇を映し出しているだけではなかった。

「……鈴君。私は、君の悩みにすら届いていないのだよ……」

唯湖の呟きは、部屋内に残っていた空気と共に、外に散っていった。







*******







唯湖の部屋を出た鈴は、助言通り、メンバーの部屋を訪れて回った。
自分が抱く気持ちは何なのか。
それを教えてもらうために。

「えっ!?い、いやー、そのー……そ、それは私の口からは言えませんヨ?鈴ちゃんが自分で気づくべきだと思いますネ」

でも。

「わ、わふー……申し訳ありませんが、何と言ったらいいのか私にもわかりません。恐らくですが、鈴さんの悩みは人から教えてもらうものではないのかもしれません」

唯湖と同じ様に。

「……鈴さん。私はあなたが知りたい答えを、9割9分の確率で知っています。ですがそれを教えることは、鈴さんにも私にも良いことはないと思います」

皆は教えてはくれなくて。

「……でも、あたしもわからないんだ」
「……その答えを知る必要はないんですよ?鈴さんがどうしたいのか、それが重要なのです」
「あたしが、どうしたいのか……?」
「ええ」

鈴は、また路頭に迷った。
美魚からもらった言葉も、鈴の脳内ではただ意味も無くぐるぐると回るだけだった。
理樹の笑顔を見た時のいらいらと、もやもや。
皆の言葉。
美魚の言葉。
どれ1つ、鈴の頭の中では繋がらなかった。

「あたしは、どうしたいんだ……?」

薄暗い廊下をてくてくと歩きながら、自問する。
確かにその感情に、鈴は覚えがあった。
それがいつのもので、どこで、どんな時に抱いたのかは覚えていなかったが、確実に自身の中にそれが芽生えた時があったことを思い出していた。
だがその時どうしたかは……覚えているはずがない。
それは、高校生にもなれば楽々気づけるはずの感情。
むしろ、その結論に至るまでに時間という時間を必要とはしない。
程度の差こそあれ、思春期も既に山場を通り過ぎたハイティーンにとってその感情は、『知っていて当然』のものである。
だが鈴はそれを知らない。
彼女は特別すぎた。
幼少時代の経緯もあり、彼女は兄という籠の中で大事に守られてきた。
それは『過保護』と言われてしまう度合いかもしれないが、トラウマを生じさせる程の慄然とする事件があったのだから、致し方ない面もあるだろう。
故に兄は大事な妹を守る為に弛まぬ努力を尽くし、高校生としては稀有な程の知識、経験を得たが、妹である鈴はそれらを得ることは出来なかった。
行き過ぎた兄妹愛。
しかしそれは兄自身の手で修正され、鈴は籠から飛び出す機会を手に入れることが出来た。
いや、飛び立とうという意思を芽生えさせた、という方が語弊がないだろう。
とはいえ、まだ何も知らぬ無垢な少女である。
科学領域では踏み込めぬ、不可思議な世界で多大な経験を得ようとも、彼女はまだまだ知らないことが多かった。
端的に言えば、精神年齢は依然として幼かった。
高校に入学できる程の知識を得ながら精神面はそれに追いついておらず、故に彼女の中で齟齬が生じてしまっている。
彼女は知らない。
人を好きになる、恋をするということを知らない。
もし彼女がその感情を向ける相手が理樹でなければ、こんな事態にはならなかったかもしれない。
もっと早くに気づけたかもしれない。
幼馴染という間柄。
性差をほぼ感じさせぬ程に連れ添ってきた彼らは、その時間が長い分、それを意識づける感覚が鈍っている。
好きには変わりない。
でも、『好き』という感情は1つではない。
それは彼女の課題。
疑問に思いながらもそれを置き捨て、微妙に差異がある好意を全て同一視してきた棗鈴という少女の、大きな壁であった。

「……」

だがしかし、以前の彼女とは大きく違う点が1つあった。
それは、相談できる相手がいるということ。
友がいるということ。
そして。

「っ!……」

たくさんの『好き』な人が出来た中で、最も気の置けない友人が出来た、ということであった。
鈴はその人を求め、走り出した。
最後の、助けを求めて。








******








「……う〜ん、そっかぁ」
「……」

鈴の親友……神北小毬はその悩みを聞き、少し困った様に笑った。
それは、今まで鈴が聞いて回った少女達の誰もが抱いた思いであった。
答えはわかっている。
しかしそれを教え込むとなると、どの様に伝えるべきなのだろうか。
どの言葉を用いれば、如何に分かりやすく理解してもらえるか……それはまるで、小児に物事を教える保育士、もしくは教師の様な心境であった。
唯湖はそれを教えることを、自ら口走ることを恐れた。
葉留佳とクドリャフカは、それを教えることで生じる結果を恐れた。
美魚は、伝えられる自信はあったが、あえて自得させることを選んだ。

「……鈴ちゃんは、理樹君のこと、好き?」

そして小毬は、教える道を選んだ。
それ程経験があるわけではないのは分かっていたし、それを気づかせようとしている自分にちょっぴり複雑な気持ちがあることも、当然の如く理解していた。
それでも、彼女は鈴に『恋』という感情を教えることは、間違いではないと信じていた。
何よりも。
彼女は、困った顔をする鈴を、見たくなかったのだ。

「……好きだ」
「恭介さんは?」
「嫌いじゃないぞ」
「真人君は?」
「嫌いじゃない」
「謙吾君は?」
「嫌いじゃない」
「……どうして、理樹君にだけは、『好き』って正直に言えるのかな?」
「うっ……あ、あいつらに『好き』だなんて言うの、恥ずかしいだろっ!」

それは、微妙な違い。
理解していないはずの鈴が無意識下に行っていた、感情の差別化。
あらゆる生物に存在する本能的な求愛衝動。
自分の好意を気づいてほしい、受け止めて欲しい。
殊更人間には感情というしがらみが存在するものの、それらは至るところで仕草や行動に現れる。
それは鈴とて例外ではなく。
『好き』と素直に言うことが出来る、唯一の異性……それを明確に打ち出したことこそが、鈴の直接的かつ、控えめな求愛行動であることは、疑いようもなかった。

「ねぇ、鈴ちゃん」
「な、なんだ?」
「鈴ちゃんは、理樹君と杉並さんが付き合うのが、イヤだったんだよね?」
「……まぁ、そうだな」
「だったら理樹君に、どうしてほしかったのかな?鈴ちゃんは、理樹君がどうしていれば、嬉しかったのかな?」

ゆっくりと、言葉を噛み砕きながら、小毬は語りかける。
未知の感情がふと湧き出したことで、鈴は混乱した。
この気持ちは何なのか、それが何故現れたのか。
何もかも、鈴はどこから手をつけていいのかすらもわからず、途方に暮れた。
かつての記憶の残滓も導き手にはならず、余計に彼女を困らせる要因になってしまった。

ならその答えまで、連れて行こう。
1歩1歩、足元に明かりを灯して。
その正体を、これからどうすればいいのかを見つけるために、手を引っ張ってあげよう。
小毬は鈴を1人で歩かせるのではなく、そして答えを持ってくるのでもなく。
一緒に手を繋いで、歩いて、そこまで行くことを選んだのだ。

「……」
「……やっぱり、わからない?」
「……いや、わかったんだけど、な」
「うん〜?」
「……言うのが、恥ずかしい」

頬を染めながらそう呟いた鈴に、小毬は暫し呆然とし……そして、にっこりと満面の笑みを零した。
光は目の前に見えている。
後、もう少し。

「私は聞きたいな〜、鈴ちゃんの口から」
「うぅ……」

――頑張れ鈴ちゃん。

「い、言わなきゃダメか?」
「言ってもらわないとわからないよ〜」

――答えは、手を伸ばせば。

「うっ……じゃ、じゃぁ言うぞ!」
「うん〜」

――すぐそこに。

「あ、あたしと付き合ってほしかったんだっ!」

――はい、よくできました。
そんな返事をする代わりに、小毬は笑った。

「鈴ちゃん、付き合うってどういうことだか、わかる?」
「どんなものかは聞いたことはあるが、よくわからん……けど、理樹と2人で『付き合』えたら、凄い楽しいと思う。あたしは、理樹と付き合いたい」
「そっ、か……」

小毬の笑顔に寂しさが混じった。
仄かに抱いていた恋慕。
彼女の中で大切に大切に仕舞われてきた想い出の欠片。
成就するとは露にも思っていなかったけれど、それらが完全にセピア色に染まってしまうであろうことに、小毬は心寂しさを感じずにはいられなかった。
それが、自らが下した決断故の結果であったとしても。

「……なら、どうすれば付き合ってもらえるか、わかるよね?」

だからこそ彼女は笑って、鈴の背中を押す。
自らの心に傷を作ってしまうことも、理樹の隣で鈴の笑顔を咲かせようとすることも。
それは誰でもない、自分が決めたことであったから。

「好きって言えばいいのか?」
「ん、ん〜……いいとは思うんだけど〜」

壁は越えた。
しかしそれでも、まだまだ課題は多い。
この無垢な少女に、恋愛というものを教えていかねばならないのだから。

「でもね〜鈴ちゃん」

小毬の今宵は、中々に長くなりそうで。
そしてそんな夜が、これから何日も続きそうで。
そんな毎夜は楽しくもあり、それでいて切なくもあって。

「ん?ダメなのか?」
「だからね、鈴ちゃん」

色々な感情が混じりあいながらも、とりあえずは。

「これから、大変だよ〜」
「?」

忙しい日々が待っていることは、言うまでもなかった。










web拍手を送る
面白いと思ったら、押してくれると嬉しいです。

こう、何でもないことを掘り下げて書くのは難しいですね。
特に心理面においては。
inserted by FC2 system