実は、全てが夢なんじゃないか。
きりりと顔を引き締めて『切り札』とのたまった沙耶が、いざ準備を始めた途端妙にはりきりだしたことも。
自分でやるからとあれ程言ったにも関わらず、沙耶が恍惚とした表情で、しかも問答無用で僕の制服に手をかけたことも。
下着を脱ぐことを断固として拒否した時、沙耶が残念そうな顔をして手を引っ込めたことも。
与えられた衣服を身に纏った時、どうしようもない程の喪失感と同時に、言い様のない高揚と興奮に胸が躍ったことも。
全てが夢なんじゃないだろうか。
そんな風に僕は今、考えていたりする。

しかし現実は非情である。
視界の端に揺れるウィッグが、どうしようもないくらいの羞恥心を生む。
少しでも目線を下に移せば己の生足が暗がりの中でもくっきりと浮かび上がっているだろうし、そんなことをせずとも、下半身がびっくりするくらいに涼やかな時点で、自分が恥ずかしい格好をしているということを思い出させてくれる。
それだけも恥ずかしくてたまらないのに、身動きする度に溢れる甘い香りが否応なく僕の鼻腔をくすぐってきて、僕が誰の服を着ているのかを忘れさせてくれない。
僕が女装をしているのだということを、僕は沙耶の制服を着ているのだということを、身に着けた物々が訴えてくる。
ついこの間、周りの目などすっかり忘れて裏庭でぽいぽい脱がしてしまった沙耶の制服を、今僕が着ているのだ。
とんでもないことになった、と思う。
今すぐにでも帰りたい。
というか、即刻脱ぎたい。
任務だとわかっていても、これではすぐにでも現れるであろうこの地下迷宮のボスと相対する自信がない。
敵であろうと今沙耶以外の誰かと鉢合ってしまったら、僕は恥ずかしさのあまり逃げ出してしまうかもしれない。

そうは思うのだけれど、僕の足が止まることはない。
一歩一歩、僕の足は慎重に暗い地下迷宮の通路を進んでいく。
僕は、沙耶のパートナーだから。
しっかり者の様に振舞ってるくせに全くしっかりできてなくて一つの事に集中しまくってスカートめくられてることにも気づかない抜けまくりな、可愛くて大好きなスパイに選ばれたパートナーだから。
これが僕の役目だから。
やるしかないのだ。
渦巻く葛藤の中で、僕は『諦め』に近い心境になりつつあるらしい。
それが沙耶の為になるのなら、という何とも献身的な想いが、耐え難い羞恥すらも上回った結果だ。

沙耶、好きだ。

意味もなく愛を囁いてみた。
ボドドドゥドオーとか言おうとしたけど、やめた。
それは沙耶の前で言おうと思ったから。
もう一度、沙耶と見詰め合って、思う存分愛を叫んで、一緒に奇声を上げようと思った。

力強く、足を踏み出した。
秘宝を手に入れた後に訪れるであろう沙耶との楽しい日々を思うと、髪を掻き毟りたくなる様な現状も、どうでもよくなった。
そんな日々に思いを馳せれば、この恥辱にも耐えられる気がした。

「……よし」

小さく呟いて、銃を持つ手に力を込めて。
僕は、前へと進んだ。
一歩、二歩、三歩……。
通路の先を目を凝らして、慎重に歩みを進める。
そうして歩数が二十を超えたところで、目の前の暗がりの中に足が見えた。
気づいて目線を上げると、銃口を突きつけられていた。
そいつは突然現れた。
そんな事ありえるはずがないのだが、視界の悪さとかそういった次元ではなく本当にそう表現せざるをえない程、そいつはいきなり目の前に姿を現したのだ。
構える隙もなく、僕は銃を下げたままそいつに目を向けた。
自分が囮だとわかっているからか、僕はこの現状でも焦りを覚えることはなく、慌てて銃を構えることもしないで目の前の男に視線を注いだ。

「ジ・エンドだ」

男――時風瞬――が言った。
ボイスチェンジャーでも使っているのだろうか、声が機械染みている。
その無機質な声は上ずっていて、多分に動揺が広がっている様にも思えた。
ふと改めて注視してみると、向けられた銃口もがたがたと震えていた。
どうしたのだろう。
明らかに様子がおかしい。
圧倒的有利な状況にあるというのに、何が彼を慌てさせているのだろう。

「と言いたいところだが……」

不審な様子に内心で疑問符を浮かべていると、時風はそう言って銃を懐へとしまった。
えっ、と驚いた瞬間、奴は仮面を脱ぎ捨て、猛然と僕に襲い掛かってきた。

「理樹、好きだーーーーーっっっ!!!」
「うわ! てか恭介!? えーっ、ええーーーっ!!」

がばっ!
と効果音がつくかと思うくらいに、ぎゅっと力強く抱きしめられる。
わけがわからなかった。
どういうこと?
時風瞬が実は恭介で、その恭介が何故か僕に愛を叫んで抱きついてきて?
何か背中に回っている手が妙に厭らしいよ?
ねぇ恭介、どうしたの?
というかこんな所で何してるの?

「うおらあああぁぁぁーーーーっ!!!」

あまりに色々な事が突然に起こりすぎたためにただただ呆然と恭介の抱擁に身を委ねていると、後ろから荒々しい叫び声とと共に何かが物凄いスピードで迫ってくるのがわかった。
振り向こうとしたが、その前に恭介が僕を抱えたまま横へと飛び退く。
ぶおん、という風切り音と共に、沙耶がドロップキックの格好で僕らが先程居た所を通り過ぎていった。

「ああああああ、あたしの理樹くんに何してんのよ!!」

地と平行に飛んでいたはずなのに器用に体を捻って華麗に着地すると、くわっと目を見開いて沙耶が猛然と恭介へ噛み付く。

「理樹が、お前の……? はっ、冗談も程ほどにしてくれ! 理樹は俺のもんさ、理樹を一番愛しているのは、俺だ!!」

沙耶の怒りの形相に怯みもせず、恭介は高らかに告白すると、今度は後ろから僕を抱きしめてきた。
恭介が、僕を?
いや待て、僕達は男であって、恭介の『愛』というのも多分友愛とかそういう系のものであって――。

「理樹、好きだ。付き合おう」
「マジで!?」
「マジだ。大マジだ。お前のこんな姿見てしまっちゃぁ、もう俺は気持ちをひた隠すことはできねぇ」

恭介は優しく微笑むと、そっと僕の手を握って言った。
ど、どうしよう。
確かに僕も恭介が好きで沙耶にも恭介のことは『大好き』って言ってるしでもそれは友達としての好きとかそういう風に思ってたんだけどでも今のこの胸の高鳴りは本当にそれだけの意味での『好き』だったのかちょっと自信がなくなってきちゃう感じでそして恭介ならいいかなとか今背中にくっついてる男らしい胸板を思うとそんな風にも考えちゃうわけで――。

「理樹くん?」
「っ!?」
「どうして、顔赤くしながら、目を泳がせてるのかな?」

笑顔が怖いです、沙耶さん。
そしてさりげなく銃に手をかけないでください、死にますから。

「おー、怖い怖い。こんな女といちゃぁいくつ命あっても足りないぜ、理樹。俺ならお前を一生守ってやる」
「あ、あたしだって守ってあげられるわよ!! だってあたしは理樹くんのパートナーなんだから!!」
「あぁ、スパイのパートナーな。人生のパートナーは俺だから、そこのところ履き違えるなよ」
「そっちもあたしよ!!!」

顔を真っ赤にして叫んだ沙耶が、続けて言った。

「理樹くんはあたしの恋人! あたしが理樹くんのこと一番好きなんだから!」
「沙耶……」
「理樹くん、思い出して。あたし達は時を超えて、愛を確かめ合ったじゃない。心も体も思う存分通わせたじゃない。ハジメテが外でだったから恥ずかしくて仕方がなかったけれど、でもお互い燃えたじゃない! ねぇ理樹くん!」
「さ、沙耶……!」

ありがとう、沙耶。
もう少しで何か人としての道を踏み外しそうだったけれど、おかげで目が覚めたよ!
そうだよね、僕は沙耶と恋人同士になったんだものね。
さっき沙耶への愛を確認したばかりじゃないか。
一体僕は何をとち狂っていたんだろう。
ごめんね、沙耶――。

「ローキーック!!!」
「いたいっ!」

心の中で懺悔を唱えていたら、その相手の沙耶に思いっきり蹴りを喰らった。
地味に痛い……うおぉ、弁慶の泣き所がぁぁぁ!

「あっ、ち、違うの! 今のは悪意があってやったわけじゃなくてっ、恥ずかしさのあまりついやってしまったというかっ!」
「理樹、帰ろう。今日は俺の部屋で一緒に寝ようぜ」
「無視をするなーーーっっっ!!! そしてちゃっかりベッドインしようとするなぁっ!!」
「ちっ、しつこい奴だぜ」
「というか理樹くんももっとしっかり拒みなさいよっ! 何普通に抱き寄せられてるのよ!!」
「いや、展開に着いていけな――」
「俺に全てを任せてくれている……理樹は俺に想いも体も全てを委ねた、つまりはそういうことさ」
「そ、そんな!?」

ミュージカルの舞台にでも立っているかの如く、沙耶はおおげさに仰け反り、膝を落とした。
『理樹くんに、そのケがあったなんて……』とか呟いている。
い、いやー、そうなりかけたけど、今は正常に戻っているというか、沙耶が大好きで仕方がないというか。
思考がまとまらず言いあぐねていると、沙耶がばっ、と顔を上げ、涙ながらに叫んだ。

「理樹くんひどいっ! あたしとは遊びだったっていうの!? あたしの処女奪ったくせに!」
「ガチ修羅場!?」

いや、ツッコんでる場合じゃないよ、僕!

「いや、それは違うよっ。僕は本当に沙耶のことが好きで――」
「え……お前ら、もうヤった、のか?」
「そう、僕は沙耶とはこれからもえっちしたい……って、今度は恭介!?」
「いや、わかってたさ……でもな、改めて面と向かって言われると、さすがに効くぜ……」

恭介が苦悶の表情を浮かべて、切れ切れにそんな呟きを発していた。
何でこう、沙耶といい恭介といい、『ハジメテ』にこだわるのだろうか。
いや、沙耶は女の子だしそういうこだわりとかあるのかもだけど、恭介は何を気にしているんだろう?
僕を童貞のままでいさせたいのだろうか。

「そうよ! あたし達は結ばれたのよ! 理樹くん、あたしでものすごーく気持ちよくなってくれたんだから! もちろんあたしも気持ちよかったけどね! 体の相性も抜群なのよ! つまり、あんたの入り込む隙はこれっぽっちもないってわけ! 素直に諦めなさい!」

そんな僕の疑問をよそに、攻め入る隙見つけたり、と言わんばかりに沙耶がまくし立てる。
相当に恥ずかしいことを言っているのだが、どうやらまだ気づいていないらしく、勝ち誇った様な笑みを浮かべ、腕を組んで恭介を見据えている。

「……そうなのか、理樹?」
「う、うん、えっちしたのは、本当だよ」
「そう、か……ははっ、理樹のハジメテは既に奪われちまったか……」

恭介はそう言って、寂しげに笑った。
それにしても、友達に彼女とえっちをしたという報告をするのって、すごい恥ずかしい。
かなり場違いな思考なのはわかっているのだけれど……あ、やばい、今の僕、絶対顔真っ赤だ。

「でも俺は気にしないぜ、理樹。そんなことでお前への愛が萎れるなんてことはないさ。これからお前を俺色に染め上げればいいだけの話さ。それに……」

どうしたものかと視線を右往左往していると、恭介がそっと、腰元……いや、お尻らへんに手を回してきた。
きょう、すけ……?

「こっちは、まだなんだろ?」
「こっ、ち?」
「や、やめてーーーっっ!! 理樹くんをインモラルな世界に誘わないでーっっ!!!」
「インモラル?」
「あぁっと! 何でもないのよ理樹くん、気にしないでっ!」
「う、うん」

よくわからなかったが、沙耶の慌てぶりから見るに恭介が不埒な事を考えていたらしい。
恭介を見ると、僕をじろじろと見ながらむふふと笑っていた。
親友に対してあまりそういうことは思いたくなかったが。
ぶっちゃけ、相当気持ち悪かった。

「あーもうっ! あんたのせいで計画がめちゃくちゃよ! 秘宝を生物兵器にした意味がまるでないじゃないの!?」
「え、秘宝って生物兵器なの?」
「そうよ。それであたしは死ぬの」
「ええ!? ダメだよそんなの!」
「安心して、理樹くん。あたしは死なないわ」
「え?」
「理樹くんを、こんな男の傍で放っておくわけにはいかないもの」

冷ややかに沙耶は言うと、キッと目を吊り上げ、恭介をにらみつけた。
その表情からは、思わず息を呑んでしまうほどの意気込みが感じられる。
まるで、何か重大な決心をしたかと思う様な。
恭介にもそれが伝わったのだろうか、沙耶の表情を見ると、顔から笑いを引っ込めた。
そして神妙な顔つきで暫し見つめた後、僕を解放し、落ちている仮面を拾うと、おもむろに自分の顔に着けて、言った。

「また、始まるのかい」
「いや、今さら仮面つけて部長面しても全然意味ないと思うんだけど……まぁいいわ。もちろん、やるに決まってる。あたしはまだ去るわけにはいかないもの!」
「だがお前にとっては過酷な世界だ。去りたくなったら、迷わず己へ向けて引き金を引くがいい」
「理樹くんが、あんたみたいなのにホイホイついていかなくなるよう教育したら去ってやるわよ……でも、その前に」
「その前に?」
「さっさと理樹くんから手ぇ離せやあああぁぁぁ!!!」
「愛をかけた勝負ってわけか……なら、負けるわけにはいかねぇなぁ!」

――理樹くんはあたしのよ!
――いいや、俺のものだ。
――理樹くん、あたしに好きって言ってくれたもの!
――俺にだって言ってくれたぜ。
――デートだってしたわ!
――俺なんて何回したかわかんねぇよ。
――あーもうっ、とにかくあたしは理樹くんが大好きなの!!!

二人が暗闇の向こうに走り抜けていったと同時、銃声と共に何だかよくわからない言い争いが勃発していた。
じゃれ合っているであろう二人の騒ぎ声を耳にしながら、僕はただただ通路のど真ん中でぽつんと立ち尽くしていた。

「……」

とりあえず。
今日発売の『men's egg』を読みに、ローソンに行こう。
ホットドッグ・プレスが休刊してしまったことが、悔やまれて仕方がなかった。





web拍手を送る

面白かったら押してください。






inserted by FC2 system