「やぁ、西園さん」
 横断歩道前で信号待ちをしていた美魚へ、声を掛ける男がいた。手持ち無沙汰に携帯電話を弄っていた美魚は顔を上げ、声のした方を向くと、そこには高校時代の友人である理樹がいた。二人組みのサラリーマンの奥で手を振っている。思いもよらぬ旧知との邂逅に、美魚は目を見開きながら口を開いた。
「お久しぶりですね、直枝さん」
「うん、久しぶり。今、大学の帰り?」
「ええ。直枝さんは?」
「僕もだよ」
 今からバイトの面接なんだ、と言いながら、理樹は美魚の隣へと寄ってくる。携帯電話をポケットに収め、美魚は先程は気づかなかった、理樹の耳につけられたピアスと、中指と薬指に嵌められた指輪にさりげなく目を流した。高校の頃は真っ黒だった髪が薄っすらと茶色に染まっているのは既にわかっていた。
 高校卒業後、美魚が理樹と会うのはこれが初めてだった。近場の大学に進学したことは知っていたが、入学して三ヶ月、顔を合わすどころか、連絡も交わしたことはなかった。幾度か元気にやっているという旨のメールを送ろうかとは考えたのだが、特に伝えねばならないものがあるわけではなかったし、皆新生活に忙殺されているのだろうと思い、美魚も結局便りを出していなかった。
 ――すっかり、大学生ですね。
 理樹をまじまじと見つめながら、美魚はそう思った。高校時代も容姿に頓着がなかったというわけではないだろうが、今ではすっかり様変わりし、都会の若者と言われても遜色のない身なりになっている。声を掛けられなければ、理樹だとは到底わからなかったろう、と思う。美魚の記憶の中の理樹とは、似ても似つかなかった。
 信号が青に変わる。ぞろぞろと雑踏が動き出し、それに釣られて、美魚と理樹も横断歩道を渡り始めた。
「直枝さんは、随分変わりましたね」
 率直に印象を述べると、理樹はそうかなと軽く笑い、美魚を見回して言った。
「西園さんは、変わってないね」
「そうですか? まぁ、特に何かを意識したつもりもないので、変わっていないのは当然だと思います」
「そっか。まぁ、西園さんは可愛いから、そのままがいいよ」
 笑顔のまま、理樹は美魚の目を見つめながらそう言い通す。何を言っているんですか、とぶっきらぼうに返し、美魚は目を伏せた。全く違うと思った理樹の笑顔の中に、あの頃の理樹が混じっていた様な気がした。
 横断歩道を渡り終え、二手に分かれる道の分岐点に差し掛かったところで美魚は上目づかいに理樹を窺ったが、特に何も言わず着いてくるので、同じ道なのだろうと、気にせず歩を進めた。横断歩道にいた時の人混みも散り散りになり、目の前を歩く人の数も少なくなっている。横に停車していた軽自動車から、激しいビートを刻む音楽が大音量で漏れている。
「そういえば、西園さんケータイ使えるようになったんだね」
 その音に顔を顰め、少し足を速めようかと美魚が考えていたところへ、理樹が口を開いた。何を言われたのか理解するのに少し手間取ったが、それとわかると、美魚は軽く吹き出した。
「当たり前です。四月の終わりには普通に使ってましたよ。いつの話をしているんですか」
「だって、文字を打つどころか、電話も出来なかったじゃない。さっき普通に使ってるの見て、ちょっと驚いたよ」
「人間、追い込まれれば何とでもなるものなんですよ」
 得意げに美魚がそう言ってやると、それもそうだね、と理樹はあっさりと言い、単なる会話の繋ぎだったのか、それ以上は携帯電話について言及することはなかった。
 車の煩い音が遠のいてきたところで、また二手に分かれる場所に出た。理樹が立ち止まり、僕はこっちだけど、と右を指した。美魚の行く道とは逆方向だ。美魚がその事を言うと、じゃぁここでお別れだね、と理樹が名残惜しそうに片笑む。そして携帯電話のサブウインドウで時刻を確認すると、やべ、と声を上げた。
「じゃ、今度一緒に飲もうよ」
 慌しくそう言い、小さく手を振って理樹はあっという間に走り去っていった。私達はまだ未成年ですよ、と言おうとしたが、理樹の後姿は既に小さくなっていたので、美魚は噤んで再び歩き出した。
 人気はすっかりなくなっている。家や集合住宅が立ち並ぶ住宅街を、美魚は黙々と歩いていく。原付バイクに乗った郵便配達人が、けたたましいエンジン音を鳴らしながら美魚を走り抜いていっただけで、辺りはひっそりと静まり返っていた。
 話し相手がいなくなり、余計静かだと感じながら歩き続けていると、ポケットの中で携帯電話が震えた。取り出し開いてみると、理樹からのメールを受信していた。「本当に後で遊ぼうね!」という一行だけだった。
 「わかりました、楽しみにしています」と同じく一行のメールを作り、返信する。送信されたのを確認すると、二つ折りの携帯電話を閉じる。手馴れたものだと思い、一つ溜め息を吐いた。
 ――変わったのは、直枝さんだけじゃない。
 そう思い染みながら、美魚は携帯電話を握り締めたまま歩き出す。学校帰りの小学生の集団が、ランドセルを揺らして横を走り去っていった。十人程の子どもらの無邪気な笑顔を流し見ながら、美魚は皆にメールを送ってみようと思い始めている。


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