「勢い勇んで社会に出たはいいけれど社会の荒波に耐え切れず、やさぐれて家で一人ちびちび酒を口にしている鈴で。あ、ちなみに理樹と付き合ってない条件でー」

 

一日の勤めを果たし、疲れた体を引きずるようにして自宅へと戻った棗鈴がまず始めにしたことは、服を脱ぎ散らかして下着姿になることと、グラスに氷を放り込むことだった。

「あのばか上司め……なんであたしが怒られなきゃならんのだ……まったく……」

近所のスーパーで購入した安物のブランデーが、鈴の手によってグラスにトクトクと音を立てて注がれていく。夏の暑さに温くなった琥珀色の液体が氷を溶かし、からんころんと音を立ててグラスの中を踊った。
鈴はグラスに口をつけて傾けると、ほんの少しだけ口を漱ぐように液体を流し込み、すぐさま顔をしかめる。そして冷蔵庫からジンジャエールを取り出すと、それでブランデーを割る。ステアを済ませると、改めて一口。先ほどのようにちょびっとだけ流し込むのではなく、こくり、こくりと喉を鳴らして三分の一を空にした。
これは、鈴の習慣、いってみれば儀式のようなものだった。まず始めに、まともに飲めはしないにも関わらずロックを一呷り(ブランデーのときもあればウィスキーのときもある。特にこだわりはないらしい)、それから手元にあるジュースを適当に選んでカクテルにする。彼女のお気に入りはブランデーに牛乳と卵を混ぜてシェークするブランデー・エッグノックというものだったが、たまには気分を変えようというのだろう、ブランデー・ホーセズネック(ブランデーのジンジャエール割り)を選択した。ステアだけでお手軽に作れることと、ブランデーのほどよい香りが楽しめるという点で比較的人気は高い。

「あ、レモン忘れてた」

独り言をつぶやき、再び冷蔵庫のドアを開けてレモンを取り出すと、まな板を出そうとして――めんどくさそうに一瞥しただけで手に取ることはなかった――そのまま手の中でスライスする。手を切らないようにゆっくりと果物ナイフの刃を入れて薄切りにすると、グラスのふちにかけ、満足そうに鼻を鳴らす。

「うむ、完璧だ」

いつの間にか足元に群がっていた猫に餌を与え、グラスを持ってリビングへと移動する。テレビをつけ、チャンネルを適当に回す。取り立ててみるべきものもなかったようで、やおら電源を落とすとソファーにぽんと身を投げた。ほぼ素っ裸であることを特に気にした様子もなく、カクテルを飲みながらノートパソコンのスイッチをいれ、日課のサイト巡りを始める。胡乱な目でディスプレイを眺め、一人仮想世界に耽るのだ。
それは、いつから始まったのか。もう本人でさえ記憶の片隅に追いやってしまい誰も思い出すことはないであろうほんの些細な出来事から、すべては狂ってしまったのだ。いくつもの出来事がやってきては、まるでドアをノックするように彼女の心の領域にまで押しかけ、悩ませ、そして”表面上は”何も残さずに通り過ぎていった。鈴はその間口をきくこともなく黙って事態を見つめ、受け流し、時には拒絶することもあったが、とにもかくにも生きてきた。その結果彼女が孤独を抱え込むことになってしまったことは、必然か、偶然か。いずれにせよ、彼女は独りだった。

「あー、つまらん」

お気に入りのサイトの更新が一ヶ月も滞っていることに愚痴をこぼし、酒をぐいっと呷る。その姿に10代のころの面影を見ることは、とてもではないができない。よくよく見ればたしかにその容姿や口調などに朧ながらも面影が残されてはいるのだが、おそらくかつての級友たちが彼女に会っても、目の前にいる人物を棗鈴だと認識することには非常な困難が伴うことだろう。
鈴は目の疲れをほぐすように眉間をぐにぐにと揉むと、ソファーの背に凭れて天井を仰ぎ見る。その眼には何も映されてはいない。死にゆく老人のように光がなく、ただ瞳が乾かぬよう時折まばたきをする他は、何物をも捉えようとはしていない。
ふと、何かに気づいたように鈴の目がスライドしていく。視線の先、固定電話の脇に置かれた写真立てには、幸せそうにはにかんだ笑顔を浮かべる親友の姿があった。名を神北小毬というその少女は、照れくさそうに頬を掻いている線の細い少年と腕を組んで世界に幸せを見せ付けるように写されていた。
つい先日新婚旅行を終えたばかりの彼らが何を思って鈴に送りつけたのか、彼女には皆目検討もつかなかったが、問いただすほどの気力も興味もない。ただ一言、

「この勝ち組どもが」

とだけつぶやき、また視線を天井へと戻した。

できる、と思っていた。
できる、と思い込んでいた。
できる、と信じたかった。

一人社会に飛び出していったって、なんだかんだで上手くやっていける――そう信じていたかったのだ。
結局のところそれは幻想にすぎなかったのだが、鈴がその事に気づいたときにはもう、手遅れだった。立ち止まることも引き返すことも許されず、曇った硝子のように視界のおぼろげな未来を見据えて進むだけ。

時々思い出したようにグラスを呷り、つぶやく。

「うまいな……酒」

まるで自分に言い聞かせるように。

「このためだけに、生きてみてもいいな」

そうでなければならないかのように。

「このためだけに、生きるのか?」

しかし迷いは生じてしまう。鈴はまだ20代の前半、すべてを投げ打つには躊躇いが多すぎた。欲もあったし、半ば捨てかけてはいるにせよ希望もあった。

「どうしてあたしは、生きるんだ? あたしの望みはなんだ? あれ……なんだったっけ……」

けれど、希望だけを糧に生きるには、少し年を重ねすぎてもいる。

「なんか釈然としないな。こんなときはネットでばかどもを釣るに限る」

カタカタとキーボードをたたくと、ネット上の掲示板へと移動する。そこでは日夜様々な人がやってきては何かを語り、あるいは騙り、伝え、有意義に、あるいは無意味に時を過ごしている。いつのころからか鈴も住人の一人となって、時々顔を出していた。もちろん、匿名で。

「『30分で500まで行ったらおっぱいうpする』っと。これでよし」

スレッドを立てて5秒もしないうちにレスがついたが、特に気にも留めず、愛用の睡眠薬を酒で流し込むと、鈴はしばし安息の眠りにつく。

「誰か、教えてくれないか?」
「誰も、教えてくれないか……」
「おやすみ」

 




    
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