とある日曜、筋トレに行くと出て行った真人を見送った僕は、一人部屋でくつろいでいた。
その日は午後になっても、珍しく誰も部屋を訪れてこなかったので、いつになく落ち着いた休みの時間を満喫できていた。
椅子に掛けながら、読みかけたまま大分放置していた本をまた一から読み直す。
そんな贅沢な時間が許される日など、いつ以来であろうか。
秋片設く、白露。
空は天高し、新涼の風が吹いている。
なるほど、その季節らしく、読書や物思いに耽る時間が与えられたということか。
真人のモノトーンな行動も、そんな僕の為の、神の思し召しであったのかもしれない。
あぁ、何と素晴らしい。
ここには、僕の安らかな時間を壊す筋肉の塊も剣の道を行く筋肉の塊も、そして童心を忘れぬ中二病の塊もいないし、ビー玉もおっぱいもいない。
猫女や腐りかけの女子、後は菓子娘なんかなら、まぁ表立って邪魔してくることはないだろうけれど、やはり誰も来ないでくれることを願うばかりだ。
一人の時間を思う存分享受できる時など滅多にないのだから。
しかしまぁ、もし仮に来るのであれば、紅茶の一杯でも持ってきてくれるとありがたい、そして一礼して速やかに部屋を出て行けばベストだ。
腰元の如き対応ならば、僕も邪険にはしない方向で一考しなくもない。
こんなこと、あの人達の前でなんか絶対に言えないけれど、心の中くらい正直になってもいいよね。
などと自己弁護し、小難しい考えを止め、また本に目を落とす。
願わくば、夕飯までは平穏の一時を。

「あのー、リキいますかー?」

一秒と経たずに望みは儚く消えてしまった。
神よ、何故ですか。
昵懇の間柄である彼らを悪口したのは、それ程に罪深きことでございましょうか。
クドの声が聞こえた瞬間、『あの犬もどきの幼女もどきが……』と内心で言い腐したのは、貴方様の冠を曲げる程でありましょうか。
他人に聞こえぬ己の胸の内であろうとも、浄妙でいなければならないという戒めを仰りたいのでしょうか。
神よ、申し訳ございません。
僕は、八面玲瓏な程出来た人間ではございませんし、なりたいとも思っておりません。
ですので、もし先程までの穏やかな時が神からの恵みであったのだとするのならば、それを放りましょう。
僕にはそれを頂く権利などないのですから。
これからも、僕はいつも通りの僕であり続けようと思います。

「あのー、リキー?」

んだよこの雌豚がぁっ!!!

「はーい、ちょっと待っててねー」

立ち去る気配がなさそうなので、仕方なく扉を開ける。
どうでもいいけど、ノックとかしてもよろしいのでは?

「あ、リキいたのですか、よかったです」
「どうしたの?」

扉を開けた先には、やはりクドがいた。
何故か顔だけ見せ、身体は壁で隠す様にしながら。

「何で、そんな壁にひっついてるの?」
「あ、はい、その、用件とも関わってくるのですが……」

そう言って、恥ずかしそうに視線を泳がせる。
けれどやはり、僕の視界に身体を晒そうと言う気はないらしく、壁端から顔だけをちょこんと出したままだ。
まぁ覗き込めば見れないことはないのだけれど、それが用事と関連があるらしいし、黙って話を聞いてあげよう。
とりあえず部屋に招き入れることをやめ、そこで話を聞くことにした。

「それで? どうしたの?」
「あ、あのっ……私が、井ノ原さんと一緒にエクササイズをしていたことは、ご存知ですか?」
「あぁ。うん、知ってるよ」

半月程前のことだったか、来ヶ谷さんからその話を聞いたことがある。
何故それを行おうとしたのかという理由も含めて。
まだ半月ではあるので目に見えて効果が現れることなどまずないのだが、それでも彼女の四肢が一向にぷにぷにもにゅもにゅぺたぺたな感じと成長の兆しが見えないことに、恭介と二人ほろりと涙したのは記憶に新しい。
彼女の成長率がゼロだとは微塵も思っていないが、それでも向ける目に生温かさが混じってしまうのは、致し方ないだろう。
そんな僕らの心情になど気づくこともなく、『秘密の特訓』と称したエクササイズを、クドは真人と共に続けているのである。

「その、実はっ! 今日の朝鏡で見たらですねっ、おっきくなってたんです!」
「へぇ。よかったじゃない」
「でも、本当に見た目が変わったのか少し自信がなくて……なので、理樹に見てもらおうと思ったのです」

なので、超長期的計画になるのは不可避であろうと僕や恭介はおろか、クラス、果てには校内の誰もがそう思っていたのだが、どうやら彼女は早くも自身の成長を見出したらしい。
だがやはり自身の目だけでは半信半疑ならしく、見間違いじゃないか、と思っている様だ。
こうまで必死な姿を見ると、『クドリャフカ君は今のままがいいのだがな』という来ヶ谷さんの言葉を送りたくなるが、彼女の長らく抱える悩みだ、そう容易に振り払えるものではないだろう。

おーけーおーけー、わかったよクドリャフカ君。
一ミリだろうが二ミリだろうが、僕は『おっきくなったね、すごいよクド』と満面の笑顔で言う準備は出来てるよ。
傍目には相変わらずの洗濯板であろうとも、君を失望させることなんてしないさ。
君の心のケアは、僕に任せてくれたまへ。

「僕でいいなら」
「そうですかっ、ありがとうございますっ」

さぁ、君のありのままを見せてごらんなさい。

「では……恥ずかしいですけれど」

頬を上気させながら、クドはようやく首から下を僕の目先に――

「……」
「ど、どうですか、リキ?」
「いや……一つ、素直に言わせてくれないかな?」
「ど、どうぞ」
「おかしいよねそれどうみても!?」

出てきたのは、『身体らしい何か』だった。
ちっこくて可愛らしいクドの顔からは想像もつかない程の屈強な身体。
肩や胸、腹部、そして腕はかつての彼女など見る陰もない程筋肉で盛り上がり、桃色のアオザイが『らめぇっ、壊れちゃうぅっ!!』と悲鳴を上げている。
つーか首太すぎ。
遊びがたっぷりあり、ゆったりとしているはずのドロワーズがもはやスパッツにしか見えない。
同じく苦しみの声を上げていることだろう。
露出している脚部は、何か大きな塊をくっつけたとした思えないくらいにでこぼこしている。
どうやら、あれも『筋肉』らしい。
バランスとれてないよ、顔だけちっちゃくて身体が真人みたい、というか真人以上だよ。
どこの戦闘民族だよ。
昨日まではいつも通りだったじゃん。
ねぇ、ウソって言ってよ。
こんなのおかしいよっ!

「ね、ねぇ?」
「はい?」
「一体、どんなエクササイズしてたの?」
「そ、それは言えませんっ」

何故恥らう。

「ど、どうですか。理樹から見ても、おっきくなってますか?」
「そ、そうだね……おっきくなったね、すごいよクド」
「本当ですかっ? よかったですっ」

あぁ、何か声すらも野太いものの様に聞こえてきた。
もうクドだなんて呼べないね。
これからは、なべ○かんって呼ぶことにするよ。
強くなったね、クド。

「私、少しでも成長できたら、リキにそう認められたら、言おうと思っていたことがあるんです」

唐突に、もじもじしながら、クドがそう言い出した。
ごめん、クド。
頼むから、その身体で太腿を摺り寄せたり人差し指を突き合わせたりしないでくれるかな。
後、上目遣いもやめてくれ。
まずは、さっきみたいに顔だけ見える様にしろ。
話はそれからだ。

「私、ずっと、ずっと、理樹のこと……」

そうは思っても、クドは止まってなんかくれやしない。
これは夢なのか。
そもそも僕の休日に落ち着いた時間があったという時点で、おかしかったのではないか。
実はまだ僕はベッドの上で安眠を貪っていて、もう少ししたらニワトリがコケコッコーと鳴いて朝を知らせてくれるのではないか。
だとするのなら、もういいじゃないか。
心の中に溜まる鬱憤を吐き捨てろ。
勇気を持て!
それはクドじゃない、僕の夢が作り上げた何かだ!
さぁ行け、僕――!

「大好き、だったんです」
「いや、無理。一片の思考の猶予すらも与えられない脊髄反射ばりに無理」
「そ、そんな…………ひ、ひどいですリキーーーっっっ!!!」

目に涙を湛えたクドが、のっしのっしと重々しい音を引きずりながら走り去っていた。
一人の空間が戻ってくる。
終わりを告げない、判然とした日曜日の午後が。

「ば、馬鹿な……」

ニワトリは、もう随分前に鳴いていたらしい。







ドリームイズエンドレス!!





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