部屋の蛍光灯に、小さな虫が数匹たかっている。クーラーのないこの部屋の唯一の冷房機器は扇風機であるが、閉め切った部屋内でプロペラファンを回し続けたところで、生み出される風は、淀んだ熱気と湿気を伴ったものでしかない。新鮮で清涼な空気を手に入れるためには、どうしても窓を開ける以外に選択肢はなかったし、それをわかっているからこそ、理樹は入り込んでくる虫は我慢し、網戸のみで部屋と外を仕切っているのである。
 理樹の右手側の壁に掛けられている、気温と湿度を計ることの出来るデジタル温度計は、午前1時現在で気温三十二度、湿度七十五パーセントを示していた。熱帯夜である。髪元、そして額から汗が滲み、頬を伝い、顎下に溜まっていく。肩に掛けた白いタオルで、理樹はそれを拭った。唸るような音を鳴らしながらひたすら風を起こす扇風機であるが、理樹の体を冷やす役目は全うできていない様だ。しかしそれでもないよりはましなのだろう、停止ボタンを押す気配はない。
 いっそのことクーラーを買ってしまおうか、という思いが一瞬、熱さでふやけた理樹の頭に描かれたが、すぐにそれを振り払う。どうせ後半年もすればここともおさらばなのだから、今さら買う様な代物ではない。そんな考えの下に、理樹はクーラー購入を即刻断念した。
 半年前にバイトの給料で奮発した、一メートル四方のガラステーブルに、飲み干されたビール缶が置かれた。テーブルには既に七缶もの空き缶が所在なさげに転がっている。それらを一瞥し、理樹は冷蔵庫へと向かい、また新たな一缶を取り出し、プルタブを開けて口をつけた。頬の赤みは、決してうだる熱さのせいだけではないだろう。定まらぬ瞳が、彼の酔いっぷりを如実に現していた。




そして君は忘れていく





 夏のとある日。既に太陽は半身を山際に沈ませ、街が白い光で覆われている、そんな暮れのことである。
 大学内の図書館で、卒業論文に向けての資料収集に一日終始した理樹は、閉館と共に外に出た。
 ――暑い。
 自動ドアが開いた瞬間、むわりとしたこもった熱気が理樹の体に絡みついてきた。その日は梅雨時の様に蒸し暑く、日が落ち始めても暑熱が消える気配はなかった。心地よかった図書館から一転、蒸れる暑さの下に置かれた理樹は軽い眩暈を覚える。しかし、いつまでもこうしてはいられないだろうと気を取り直し、校門を左手に曲がって、緩やかに下る歩道を気だるげに歩いていく。
  大学を出たところには、一本の国道が横切っている。理樹のいる歩道の横手に敷かれているのがそうで、この街の主流となる国道だ。校門からそちらの方へ真っ直ぐ5分ほど歩けば最寄の駅があり、大学生にとって、交通の便はそれなりに良好と言える。元々、人もまともに住んでいなかった野山であったところを断片的に切り崩して作られた町であるので、人工的な匂いがするのは駅から大学周辺までで、その周囲には自然が色濃く残っている。十年前、この近辺に大学を建てる計画が立てられた際、十分な敷地を確保できるとして野山は切り拓かれた。ここに人の気配が入り込んだのはその時からだ。下り坂から駅よりもさらに先を見渡せば、青々とした木々で埋め尽くされた山々が見えるのには、そういう背景がある。
 道路沿いには、右も左もマンションやアパートが立ち並んでいる。これらの共同住宅は学生達が住むためにと、大学建設に伴って建てられたものだ。開校半年前の完成を目途に建てられたので、築十年弱のものが多く、真新しい、現代的な外観をしたものばかりだ。しかしながらモダンな雰囲気を持つ住宅街もそれ程広いものではなく、直線に歩み入れば、檜、唐松といった針葉樹が植えられた林道へとすぐに到達する。人工と自然の融合が為された、ある種近未来型とも言えるのかもしれないが、この住宅街に住まうのは、こと娯楽を欲する若者である。大学に近いということである程度目を瞑ってはいるが、彼らにとっては、レジャー施設が乏しいこの地には不満が多い様であった。理樹もその一人であることは、言うまでもない。
  歩いてわずか数分で、理樹の体中から汗が噴き出てきて、露出している腕、首には玉の様な汗が浮かんでいる。鋭い西日と徒歩によるカロリーの消費が、理樹の体感温度を著しく上昇させていた。立ち止まりたい衝動に駆られるも、それをしてしまっては余計に体の火照りを増長させる。足を動かし始めてしまった以上、一刻も早く家に帰るほかないだろう。頬を伝う汗をむずがゆく感じながら、理樹は歩き続けた。
 黒い無地のポロシャツが汗で肌に貼りつくのに若干の嫌悪を感じつつ、理樹は何の気なしに、ジーンズの左ポケットに入れていた携帯電話を取り出した。本巡りに時間を忘れ、ここでようやっとケータイの存在を思い出したのだ。
 大学に入ってから、理樹は些かずぼらになっていた。旧友から一人離れた地に進学したということが、彼をそんな人間にさせたのかもしれない。甲斐甲斐しく世話をしなければならない問題児は、ここにはいなかったからだ。
  ケータイには一通のメールが受信されていた。するするとメールボックスを開いた理樹は、送ってきた人物の名前に思わず目を見張る。送信者には、宮沢謙吾という名が記されていた。
 高校卒業以来、めっきり旧識との交流は途絶えていた。幼馴染である、恭介、真人、謙吾、鈴。そして、小毬、葉留佳といった、高校時代に出会った親友達。彼らの近況を気にすることもなく、理樹は大学生活を満喫していた。懇意にしていたはずの彼ら、彼女らの存在が、記憶という名の引き出しの奥底に押し込まれてしまったのは、引越し時に寂しくなるといけないからと、高校時代の思い出の品々を真人に預けたことが原因であろう。だからこそ、理樹は高校時代の眩しいまでの日々を引きずらなくて済んだのだ。
 ――何の用事だろう。
 突然の謙吾からのメールに理樹は訝った。謙吾に限らず、昔馴染みとまともに連絡を取り合ったのは二年前の元旦以来だ。盆や正月前には必ずと言っていい程、帰省できるのかといったメールが送られてきていたが、それは確認の様なもので、理樹が無理なことを告げると大抵すぐに引き下がった。しかしその年の一月には成人式が控えていて、その時だけは彼らも、何とか帰ってこれないか、と食い下がった。それが、理樹の記憶に残る原因となったのであろう。そしてそんな彼らの再三の要望に、『バイト休めないから』という一言でもってにべもなく拒否したことも、印象づける一端を担っていた。勤め先にその旨を報告すれば、急でも休みをもらえるとわかっているのにそうしなかったことが、理樹の頭の中で引っかかっていた。完全なる嘘。そこまでする必要があったのだろうか、という疑問が理樹の心に去来したが、それは解明されることはなく、日常によって流され、胸の底に沈んでいった。その時からさらに二年経つが、それが掬い上げられたことは一度もない。そんな、理樹の薄情とも取れる心持と行動によって、高校を卒業してから一度たりとも、リトルバスターズ全員が集うことはないのだった。
 今はまだ盆の一月半前で、連絡が来るには少し早すぎる。かといって、近々何かしらの行事があるわけでもない。今送られてきた謙吾からのメールは、理樹にとって不審以外の何物でもなかった。緊張が走る。内容が皆目見当もつかないこのメールは、理樹に幾ばくかの怖れを抱かせた。理樹にとっての彼らは、もはや気の置けない仲ではなくなっていたからだ。
 しかしその刹那には、電話などの直接な対話よりはましだろうという考えが浮かんでいた。メールなら己の心情を隠すことが出来るし、返事は時間をかけ、いくらでも変えられる。如何様にも出来るのだ。そう思いなおすと、理樹の心の恐怖はゆっくりと解けていって、後は、この中に書かれた内容がどんなものなのだろうか、という緊張だけが残った。
 暫しの逡巡の後、心の端に芽生えた安堵感を体中に行き渡らせる様に、一つ深呼吸する。そうして、気持ちを落ち着けてから、理樹は意を決し、メールを開いた。
『鈴が結婚する』
 その文を理解するのに、少しの間が要った。道端で立ち止まり、じっとケータイの画面を見つめる。絡みついていた暑さが、興味を失くした様に離れていった。横を勢いよく通り過ぎていく自動車の音が、遥か遠くで発せられている様だった。意識が瞬く間に遠のいていって、心臓の激しい鼓動だけが、理樹の耳の中でいやに響いていた。
 わずか九文字の文章を何遍も読み直していって、ようやく、その事実は理樹の頭の中に転がり込んでくる。しかし理解することは出来ず、目の前に見える文字だけが、ただただ塊として入ってきただけだった。
 理樹は家路を急いだ。大学と駅までの坂道を真ん中程の所で曲がり、共同住宅の密集地へと入る。そこから真っ直ぐ歩いていけば、3分と経たずに住んでいるアパートへと辿り着く。
 数分ばかりの道のりでさえも、理樹はもどかしく感じた。忘れかけていたはずなのに、既にどうでもいい存在のはずだったのに、その一言だけで、理樹の頭はぐちゃぐちゃにかき回された。先程よりも深く、濃厚な恐怖が心を覆い包んできて、焦りと怯えでひどく震えていた。
 わからないことが多すぎた。鈴のこと、謙吾のこと、皆のこと、そして自分のこと。何もかもを整理するために、何よりも落ち着ける自宅を目指した。避けたがっていた電話を、理樹は今一番望んでいた。





「もしもし、理樹か?」
「うん。久しぶり」
「あぁ、久しぶり。元気だったか?」
「うん、まぁね」
 久しぶりの謙吾の声は、少しの違和感もなく理樹の鼓膜を震わせる。変わらない調子に、心を温かくさせた。
 家に着き、着替えることもせずいの一番に電話をかけた理樹はここでふと、呼吸が乱れていることに気づく。帰途の記憶がほとんどと言っていいくらいにない。ただただ急ぎ焦る気持ちが、胸に思い起こされる。自分がいつの間にか早足になっていたのだということを、すぐに悟った。
 やや荒くなった息は、謙吾に聞こえていたのだろうか。息切れを自覚した途端、そんな心配が芽生えた。聞こえていたとしたら、気が動転していると思われたのではないか。無自覚に心急く己の姿を省み、理樹の頬が、さっと羞恥で赤らんだ。
「鈴のことで電話してきたのか?」
「う、うん。詳しい話が聞きたくて」
「だろうな……いいぞ、俺が知っていることなら何でも教えてやろう」
 謙吾は何も言ってこなかった。気づいていないのかもしれないし、もしかしたら、気づいているがあえて黙っているのかもしれない。話を進めながら、理樹はどっちなのだろうかと考えたが、謙吾の声色からそれを判断することは出来なかった。
「相手の人は?」
「一つ上、大学の研究室の先輩だった人だ」
「あ、じゃぁけっこう長い付き合いなんだね」
「そうだな、もう少しで三年、といったところか」
 すらすらと情報を渡してくる謙吾に、理樹は、今でも彼らの間ではそれなりの交流があるのだろうと推察した。恐らく、何も知らないのは自分だけ。二言三言の会話だけで如実となった孤立は、理樹の胸に何の感情も呼び起こすことはなかった。それは己の行動ゆえに起こった結果だということを、誰よりもわかっているからだ。
 換気のなされていない家は、外よりもさらに蒸し暑い。温度計にちらりと視線を送った後、理樹は迷いもなく扇風機を回す。気温は三十四度を記録していた。額に貼りつく前髪を、鬱陶しげに手で払う。扇風機から送られる風は生ぬるかったが、火照った体には、それが涼やかなものに感じられた。その一方で、図書館での快適だった時間が、遠い昔の事の様にも思えていた。
「実はだな、理樹」
 改まった様に、謙吾が話を切り出す。しかしそう口を開いたものの、言いあぐねるかの様に、すぐさま口ごもった。
 言いづらい事の様だと瞬時に察しながらも、早くしてほしいと理樹は願わずにはいられなかった。謙吾との電話は、理樹をどこか臆病にさせた。これ以上鈴の話を聞く事に恐れを感じていた。正体のわからぬ恐れを突き止めるべく、嫌がっていた電話も自らかけたというのに、恐怖心は一層膨らむばかりだった。理樹はもう、一刻も早く通話を切りたい気持ちで一杯になっていた。
 理樹の心にそんな、苛立ちにも似た怖気づく気持ちが沸々と沸きあがっていったその時、あまり驚かないで欲しいのだが、と前置きをして、謙吾は声を潜めて言った。
「鈴は妊娠しているんだ」
「え……」
「つまり、だな。できちゃった結婚、というやつなんだ」
 沸いていた焦燥が、一気に冷えた。怒りとか悲しみとか、ありとあらゆる感情が生まれては弾け飛んでいく。一瞬の喜怒哀楽の爆発は、理樹の心を粉々に打ち砕いた。頭が真っ白になる。謙吾の言葉が、脳内で空虚にリフレインする。
「理樹、聞いてるか?」
「う、うん……」
「そうか? まぁ、そういうことだ」
「そ、そっか……それは、おめでたいね」
 ついて出た言葉は、何とも白々しい雰囲気を持った祝福だった。そんな事は一片も思ってはいなかったのに、結婚、妊娠というキーワードから、半ば反射的にそれを連想し、口走っていた。言ってからすぐに切歯扼腕する。目に見えて狼狽えていることに気づいた理樹は、己のふがいなさや、自分をそうさせている謙吾に対し、怒りを覚えた。
「……で、式は挙げるの?」
「いや、何分急なことだったし、籍だけ入れるんだそうだ」
「学校は?」
「今はまだ慌しいし、身重だからな。ひとまず休学届けを出して、後で考えると言っていたな」
「ふーん」
 理樹は努めて平静を装うことにした。心の乱れを感じ取られるのは何よりも避けたかったし、それを自認することもしたくなかった。転嫁させた怒りを抑えることはできなかったが、それを表に曝け出すのは、とても格好の悪いことだと理樹は思っていた。
 汗はいつの間にか引いていた。冷たく湿ったポロシャツが気持ち悪く、体を撫でていく風が肌寒い。扇風機を止めた理樹は、ベランダに繋がる窓を開け放った。夕暮れの街並みの中で、ジジジと蝉が鳴いている。
 とりあえず、電話を終えたら着替えよう。逃避するかの如く、理樹は思考を別な方向へと、無理矢理に飛ばした。
「それでだな、理樹」
「うん?」
「何もしないのも寂しいということでな、恭介が、ささやかながらパーティでもしようじゃないかと言ってるんだ」
「パーティ?」
「あぁ、リトルバスターズ、でな」
 謙吾の嬉々とした声を聞きながら、理樹は冷蔵庫から、ペットボトルを取り出した。中には、コップ二杯分程だけの緑茶が入っていた。別の作業をしながら、電話を片手間でする。そうすれば、いらぬ心の波を立たせなくて済む。そうだ、これくらいが丁度良い。自らに言い聞かせながら、理樹はリビングへと戻った。
「どうだ? 皆も乗り気だぞ?」
「そうなんだ……日取りとか、もう決まってる?」
「いや、その辺はまだだな。鈴の身辺が落ち着いてからになるだろう」
「そっか。じゃ、決まったらまた連絡してくれる? 都合とかもあるし」
「そうか……わかった。なるべく早く決めよう」
 物凄く残念がっているな。謙吾の声の調子があからさまに落ちたのを耳にし、理樹はそう思った。リトルバスターズの集まりが、理樹の中でそれ程優先順位が高くないことに謙吾は気づいたのだ。鈴の結婚という大事で、しかもそれを祝うパーティをすると言っているのだ。予定があったとしても、どうあってでも行く。リトルバスターズという集団を実は誰よりも愛している謙吾のことだ、それくらいの気概を見せて欲しかったのだろう。片手で開けたペットボトルのキャップが、勢い余って吹き飛んでいったのをぼんやりと眺めながら、理樹は謙吾の心情をそんな風に推測した。
「じゃ、詳しいことはまた後でね」
「わかった……あぁ、それとだな」
「ん?」
「俺に言うくらいなら、鈴に直接言った方がいいと思うぞ? むしろそうしてくれ」
「……うん、そうだね。じゃ、また」
「あぁ、またな」と謙吾が言い切るのを待たずして、通話を切る。そして、ケータイをベッドへと放った。綺麗な放物線を描いてベッドの上に落ち、数回飛び跳ねた後、動きを止める。それをしっかり見届けてから、理樹はおもむろにポロシャツを脱ぐ。台所の横に備え付けられた洗濯機の中に、それを丸めて放り込む。
 シャワーを浴びよう。開放感に身を委ねながら、理樹はそう決めた。ラッパ飲みをし、茶で喉を潤した後、早速バスタオルや下着を準備し、風呂場へと急ぐ。理樹の住む部屋には脱衣所がないので、台所の前で残りの衣服を脱ぐ。
 そうして全裸になり、さぁ風呂場に入ろうという時、ふとそこから部屋を覗くと、網戸の下に、先ほど吹き飛ばしたキャップが見えた。ペットボトルから遠く離れた場所に飛ばされた、小さなキャップ。依然として、ペットボトルは封の開いたまま、テーブルの上に鎮座している。暫しそれらを眺めていた理樹だったが、はっと我に返った様に頭を振って、風呂場へと入っていった。
 ――別に……。
 わざわざ拾いに行く必要もないだろう、と心の中で吐き捨てた。数十分でお茶が腐るわけでもない。上がってきてから片付ければいい。物臭になったものだ、と自分に苦笑しながらバルブを捻った。
 シャワーを浴びている最中、ふと気づけば、物思いに耽っていた。謙吾との会話、鈴の結婚、ペットボトル、キャップ。いずれも思い返せば、胸にしこりが出来るかの様な感覚を覚えた。汗を流してさっぱり出来るはずなのに、この狭い空間の中にいると、どうにも重苦しいものを感じずにはいられなかった。さっさと上がろう、そして酒を飲んで、酔いに任せて寝てしまおう。泡を洗い流しながら、風呂上りの一杯に思いを馳せた。どれだけ楽しい事を想像しても、上がった後の事を思うと、理樹の脳裏には、網戸下のキャップの存在が着いて回っていた。


                                     * * *


 特別学びたい学問があったわけではない。この地に惹かれるものがあったわけでもない。理樹の進学先をここに定めた理由はただ一つ。事実的な距離において、最も旧友達から離れることが出来る地ということだった。
 高校二年の初夏。九死に一生を得た修学旅行バス転落事故。その時に垣間見、体験した世界で得た力というものに、理樹は疑念を持っていた。死に別れより生き別れ。あの時見出した強さというものは、もしかしたら、止むを得ない状況だったからなのかもしれない。恭介が卒業した時、寮を出払い、完全に引っ越してしまった時、理樹はその思いを認めた。それ程に、恭介が自分らの下を離れていったことが、心苦しく感じられたのだ。
 これから自身も高校を卒業し、大学に進み、そして社会に出て行く。それを考えた時、理樹は途方もない不安に苛まれた。果たして自分は、知己との哀別を乗り越えることが出来るのか。そんな未来を空想する度に、理樹の胸は瞬く間に凍りついた。
 止むを得ない状況を作る必要があると理樹は感じた。本当に一人で生きていける力を身につけなければならない、心を強く鍛えなければならない、そういう思いに駆られた。そうして理樹は単身、皆の下を離れる決意をした。高校三年の五月。その年最初の、進路希望調査が渡された時のことだった。
 メンバーからのあからさまな反発はなかったものの、そこに進もうとする理樹に、疑問を持ってはいた様だった。何故そんな離れた場所に進学するのだろうか。素朴でありながらも、当然の疑問だった。そこの教授が、研究分野が、と理樹の並べ立てる尤もらしい理由に一応の納得を示していたものの、本当に腑に落ちたのかどうかは、未だ理樹もわかっていない。そして、それを知る気もなかった。
 その時言い逃れが出来ればいい。理樹の口から出た言葉は、そういった類のものだった。




 「そういえば、そうだったな……」
 ビールを飲みながら、理樹は自嘲気味に呟いた。一缶二缶飲めばすぐに襲ってくるだろうと思っていた睡魔は未だ来ず、テーブルに置かれた空き缶はとうとう二桁に突入していた。その代わりにやって来たのは、昔の思い出。奥底に仕舞われていたそれらは、唐突に飛び出してきて、そして一気に、理樹の頭を支配した。
 きっと、あんなことがあったからだ。理樹は今日の、謙吾との一幕を思い出している。自分が感傷的になっているのは、久しぶりに旧友の声を聞いたからだろう。そして、鈴の結婚という一報を耳にしたからだろう。そう決め付けた。それ程に、理樹の中で衝撃的なニュースだった。鈴が恋をして、あまつさえセックスを覚え、交わる快楽に酔いしれ、その果てに、新たな命を身に宿らせた。それは、理樹の脳内とは乖離した現実だった。そんな鈴は、理樹の知る鈴ではない。理樹の中の鈴は、自分や、恭介の後ろにくっついて、何も知らず、無垢のまま、ただただ子どもの様に走り回っている少女だったからだ。
 ――つまり。
 そういうことなのだ、と理樹は思った。自分の描く鈴と、今生きている鈴との食い違いが大きかった。予想外の事実に、自分の脳内の処理が追いつかなかった。だから自分はあんなに驚き慌てたのだ。謙吾との電話から大分時間が経った今、飲酒による気分の高揚も相まって、理樹は落ち着きを取り戻し、自分自身に対しての強がりを緩和させていた。そうしてようやっと、事実と、自らの感情とを見詰めた結果、そんな結論へと達していた。
 それは何も鈴だけに言えることではなくて、故郷の親友達であれば誰にでも言えることだと思った。女であれば、髪を染めたかもしれない。化粧が濃くなったかもしれない。高校時代にはなかった、女の香が漂っているかもしれない。鈴と同じ様な境遇になって、でも、新たな命を殺した者もいるのかもしれない。考えればいくらでも出てきた。謙吾の声を聞いた時に抱いた安堵感は、自分自身の描いていた像との齟齬が生じなかったからだろう。あの、ぶっきらぼうで、そっけなくて、それでいて落ち着きのある声は、まぎれもなく理樹の中の謙吾のものだった。しかし、謙吾ももしかしたら、己が想像もしていなかった姿になっているのかもしれない。そう考え直すと、理樹の心にたちまち暗雲が立ち込めた。
 理樹は思考を遮るかの如く、テーブルに缶を叩きつけた。大きな金属音が鳴り響き、理樹のもやもやとした気持ちと不快感を劈いた。
 扇風機は未だごうごうと音を鳴らし、首を忙しなく振って風を作っている。その風によって、テーブルの上の空き缶達がカラカラと微動しながら鳴いた。生ぬるい風に慣れてしまった体は、体温を下げようとせっせと汗を分泌する。理樹はまた、しっかりとタオルで体を拭った。風呂を上がってからずっと肩にかけていたタオルは、水と汗を吸い込んで、少し重くなっていた。
 風呂上りに片付けようと決めていたはずのペットボトルは、結局放置されたまま、テーブルの上に置かれている。網戸の下まで移動する億劫さの方が、茶の傷みよりも理樹の中で優先された結果だった。キャップも、網戸の下で静かに蛍光灯を見上げている。蛍光灯には小さな虫が数匹たかっている。時折ガラス管に羽が当たって、ビビビと耳障りな音を発していた。





 テーブルの上に十五の空き缶が積まれたところで、ようやく理樹は飲酒を止めた。ビールのストックがなくなったからだ。浴びる程の酒を飲んだにも関わらず、理樹の意識ははっきりしていた。少しでも体を揺らせば視界はミミズの様に曲がりくねったが、思考だけは絶えず働いている。頭はずしりと重く、鈍っているのは否めないものの、謙吾のメールから端を発する心のひっかかりは未だ消えず、それが理樹に考える力を与えている。ひっかかりに伴う不快感もまた、深く酔わすのを阻害していた。
 何か違う様な気がすると、理樹は先程下した結論を改め始めている。鈴の一件によって理樹の心に訪れたのは、驚きだけではない。聞きたくないと耳を塞ぎたくなる程の大きな恐怖と、不快感も芽生えていた。現実に対する抵抗感とも違う、激しい怒りの炎がそれを必死に拒ませていて、胸のどこかを焦がしていた。自分の頑ななまでの拒みがどこか異常なのはそこに原因があるだろうし、それは脳内ギャップに対する逃避だけではなりえない、と理樹は思い直している。イメージと現実の隔たりはいずれなくなるもので、慣れによって間隔は埋まっていき、己の気づかぬ内に、無意識の内に違和感は消失している。そういうものだと理樹は理解している。そして、わかっていてもなお、理樹の頭は断固とした壁を作って彼らを拒絶している。今を生きる彼らの姿を認めることを、望んでいないのである。
  ――そうか。
 そこまで考えて、理樹は小さく唸った。抱いていた不快感、嫌悪感に、見当がついたのだ。
 全ての答えはそれに集約されていた。彼らの姿を高校時代のそれで留めておきたかったのだ。自らの中で描かれていた、眩い彼らのままにしておきたかったのだ。そう考えれば、単身離れた地に進学し、その後の彼らを赤の他人の様な存在にしていたことも頷ける、と理樹は思った。徹底したはねつけも、それを根幹にすれば筋が通った。結局この時理樹は思い出すことはなかったが、二年前の成人式の拒否も、その心情が働いたにほかならない。高校時代に思っていたことも偽りでしかなく、本心は全く別のところにあって、当時の理樹はまるでそれを自覚するのを忌避するかの如く、尤もらしい理由を上塗りしていた。
 いつまでも、子どもでいて欲しかったのだ。変わる姿を見たくなくて、自分は彼らの下を離れたのだ。あの河原で撮った一枚の写真の頃の様なままで、いつまでも己の胸の内で、変わらぬ思い出で在り続けたかった。それが理樹の純然たる願いだったのだ。まるで禁忌の様に縛られていた心の深い部分の箍が外れ、一気に溢れ出てくるのを理樹は感じた。
 恭介が卒業した時に生まれた苦しみは、別離に対するものだけではなかった。スーツに身を包み、顔を引き締め、新社会人として変わり果てた恭介に落胆していたのだ。理樹の素懐していたものが、初めて失われてしまった瞬間だった。
 彼らと会うことを拒否し続けたのは、心の中に確固として描かれる、リトルバスターズが崩れされるのを厭っていたからで、鈴の結婚、妊娠という一報にひどく狼狽したのは、そのリトルバスターズ像が壊されてしまったからだ。ギャップに驚いたのではなかった。全ては、我侭なまでの庶幾を保つための拒絶反応だったのだ。それにも関わらず昨日電話をかけてしまったのは、知ってしまった以上、それが嘘であってほしいという現実逃避が理樹の中で起こったからであろう。あくまで理樹の望みは、己の中に描いているリトルバスターズが不変で在り続けることであって、自らの知らぬところであれば、彼らがどうなっていようと一向に構わないのだ。
 その帰結は、ストンと理樹の胸に落ち、じわりと染み込んでいく。既に現実を知ってしまったことの苦しみは残っていたが、本心を認識出来たことは、理樹の心を清々とさせた。酒がなくなってすぐにわかることが出来てよかったと、理樹は思った。
 締めと言わんばかりに、ペットボトルに入った茶をラッパ飲みする。ぬるくなったそれに一瞬顔を顰めるも、ぐいと飲み干した。ペットボトルが空になったことをしっかり目で認めると、とうとう、理樹はキャップを取りに行った。網戸の下に落ちていたそれを拾い上げ、不燃用のゴミ箱へと捨てた。そして、空になったペットボトルも、中を一通り水で濯いだ後、ラベルを剥がし、潰して、それ用のビニール袋へと放り込む。そこの町の方法に則って、分別は完璧になされた。
 ベッドの上に飛び込んだ。落ちていたケータイを拾いサブウインドウを照らすと、時刻は三時を回っていた。今日の予定も昨日と同じだったが、別段時間を決めているわけではない。どうせ昼前には起きるだろうしと、目覚まし機能を呼び出す事もなく、ケータイを再度投げた。
 タオルケットの感触が心地よい。アルコールを摂取したことによって揺らめく視界と思考も、まるで揺り篭の様に感じられた。眠気はまだやってこなかったが、こうしていれば、いつか意識は落ちるだろう。そう考えて、理樹はベッドの上に身を投げた。
 ――どうやって、断ろうか。
 眠気が訪れるのを待ちながら、理樹はそんな事を考える。
 言い逃れが出来れば後はどうでもいい。そういう思いに落ち着くのは、時間の問題であった。







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後書き
『強いって、何ですか?』
この問いの答えを見つけるために闘っている、とある漫画の主人公がいます。
日々切磋琢磨し、並居る強豪を打ち倒し、ある一つの頂点に達したこの男でさえも、強さとは何なのか、未だに見つけられていません。

『強さを手に入れた』と思っていた男がいました。
頼りになる仲間達に囲まれて、その男は何にも替えがたい力を得たと思っていました。
しかし、ふとした時、その『強さ』に疑いの気持ちを持ってしまいます。
自分の『強さ』に対する自身が揺らいでしまいます。
そういう状況になったとしたら、その男は、次は何を求め、生きていくのでしょう。 
どうなるのかは誰にもわかりません……ですが。
持っていたはずの『強さ』を曲解し、間違った方向に行っていることもわからず、わからないまま、何もかも忘れていく。
そんな可能性も、きっとあるんだと、私は思います。










    
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