お題『杉並さんと古式さんがキスをする』


 夏休みに入ると、夏の匂いが色濃くなった。茂った木々の隙間から差す木漏れ日は眩しく、見上げれば淡い光の中に冴えわたる青空が見える。夏真っ盛りだ。心の中でそんな感想を漏らし、うはーと蕩けた声を上げて、睦美は揺れる陽炎の中を歩いた。
 こんな夏の日に補修なんか素直に受けられるわけがない。教室の窓から広がる夏の世界を見て、睦美はサボタージュを決め込んだ。やってられるかと胸の中で吐き捨てて、そそくさと教室を抜け出した。
 友達なんていない。高宮と勝沢が就職組に流れてからは、さらに孤独になった。
 教室は窮屈だった。補修という名の受験勉強をするのももちろん嫌だったが、独りで机とにらめっこし続ける方が嫌だった。そんな睦美にとって、サボりがバレて教師に怒られるよりも、日常的な閉塞感から解放されることを望むようになったのも、当然といえば当然だった。

「あっつーい」

 手を団扇代わりにして仰ぎながら、ゆっくりと中庭を歩く。最初こそ夏らしい情景や空気に感嘆したものの、今となってはまとわりつく暑気に嫌気が差していた。こんなことなら補修受けながら窓の景色眺めてた方がよかったかも、と睦美は思ったが、今更戻ったところで教師の説教が飛んでくるだろうことは容易に想像できる。しかも今の時間は数学だ。数学教師は陰湿で有名である。やれこないだの模試がどうこうお前の志望校と照らし合わせるとだのちくちく厭味を言われるに違いない。

「それはやだなぁ」

 一人ごちて、睦美は自販機へと向かう。喉が渇いていた。とりあえず水分補給することに決め、睦美は紙屑程の葛藤を小銭と一緒に自販機の中に放った。背後から誰かが走ってくる気配がしたのは、その時だった。
 振り返れば、荒い息を吐きながら、手に膝をついている女性の姿があった。睦美はちらと見えた眼帯から、すぐに古式みゆきだとわかった。
 目の治療の目途がついて以降、大学で再び弓道を始めるべく体力づくりに励んでいるらしいことは風のうわさで聞いていたが、補修もパスしているとは知らなかった。多分推薦で行くんだろうなぁなんて思いつつ、ご苦労様、と心の中で労い、睦美はお茶を買った。
 みゆきは随分と疲れているようだった。睦美がお茶をちびちび飲んで、半分ほど減らした頃になっても、顔は上がらず、息も荒いままだった。どんだけ走ってたんだろうと心配になった睦美は、出来心で持っていたお茶を差し出した。

「よかったら、飲みます?」

 声をかけると、上目遣いでこちらを窺ってきた。お茶を眼前まで持っていってやると、みゆきはひったくるようにそれを取って、ぐいと勢いよく煽った。一気に少なくなったお茶を見て睦美はおいおいと苦笑したが、ようやく顔を上げたみゆきがぷはぁと大きく息を吐いたのを見て、まぁいいかと思い直した。
 
「ありがとうございます……えっと」
「杉並睦美です。C組の」
「杉並さんですか。ありがとうございました」

 深くお辞儀をしてから、「けっこう飲んでしまいました、すみません」と添えて、みゆきは睦美の手にペットボトルを渡す。そしてまたすぐに駈け出した。

「このお礼は必ず!」

 随分なペースで走り去っていくみゆきに小さく手を振りつつ、まだ走るんだなぁ、と睦美はぼんやり思う。目標に向かってひたすらまっすぐに進んでいくみゆきは綺麗で、遠い世界の存在のようだ。絶望を味わってなお一縷の望みにかけてひた走っていることを知っているからこそ余計にそう思えて、睦美の心には虫歯のように染みた。
 ――私も頑張ろうかしら。友達百人。
 目指せ大学デビューか、と呟いた言葉が空しく渡り廊下に響き渡ったのがあまりにも切なくて、睦美は残り少ないお茶を飲み干した。

 

 

 




    
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