七月十七日 月曜日(晴れ)
 
 修学旅行バス転落事故から約一ヶ月。恭介が集中治療室から一般病棟への移動が決まったり、クラスメイト達が徐々に退院し始めるなど、喜ばしいニュースが舞い込むようになった。しかし恭介の容体はまだまだ予断を許すものとは言えず、半数以上のクラスメイトが病院に残っているという現状も考えると、決して手放しで喜べる状況とは言えない。また、今回の事故により僕が知ることとなった、親友たちがかねてより抱えていた複雑な事情もどうやら解決には至っていないようであり、僕の関与するところではないとは言え、怪我の状態も含めて気がかりである。
 こうして残る問題を考え出すとキリがないわけで、そしてその多くが、僕があれこれと心配したり気を揉んだところで何か快方に向かったりするはずもないのだということはわかってはいるのだが、それでも、皆が元気になって戻ってきてほしいと祈らずにはいられない。そして、このまま時間の経過と共に、かつてのような穏やかな学校生活に戻っていってくれることを願うばかりである。
 それはそれとして。
 と、あっさりと話題を変えてしまうのは、今綴った文章を薄っぺらいものにしてしまうかもしれないし、もしかしたらとても薄情なことなのかもしれないが、この日記みたいな何かは、本当は全く別のことを書くために用意したものであるので、前置きはできるだけ簡略化したいという気持ちがある。だから、誰かに見せるものではないし、見せる気もないのだが、もしこれを見つけてしまった誰かは、苦しむ皆を放って物想いに耽る僕を許してほしい。こんな、日記じみたものを書ける程度にまで回復してしまった僕は心のどこかに余裕ができてしまったらしく、二、三、というか、けっこう色々と考えたいことができてしまったのである。
 というのは、事故の時に経験した、あの世界のことである。もっと具体的に言えば、「あの世界で出会った女スパイについて」だ。
 やっぱり女スパイはいたと思うのである。もやがかかったようにあの世界についてはあまり思い出すことはできないのだが、僕はあそこで女スパイに出会った。それはやはり確かなことなのだと、今僕は思っている。
 あの女スパイが誰だったのか。それが気になって仕方がない。何か特殊な仕掛けでも施されたのだろうかと思うくらいにあの世界で起こったことがはっきりと思い出せない記憶を何とか振り絞りつつ、彼女が果たして何者だったのか、答えが出ないとわかっていても、最近はそればかりを悶々と考え込むようになっている。それはもう、日常生活にそれなりに支障をきたしかねないくらいに考えている。正直、そろそろ精神衛生上的によろしくないレベルにまで上り詰めてきているように思えてきたので、捌け口という意味で、こうして筆を執ることにしたのである。ここで思う存分吐き出すことで、今の僕が抱えるもやもやが消えてくれることを願う。そして、あわよくばこの疑問が解決へと向かうことも期待しよう。
 まずは、僕が持っている彼女についての情報を整理してみる。
 情報その一、彼女の名前は「さや」。苗字は思い出せない、そしてどういう漢字を書くのかもわからない。でも、確か僕はさやと呼んでいたはずだから、彼女の名前はこれで合っていると思う。
 情報その二、彼女はスパイである。詳細に思い出すことはできないが、確かに彼女はスパイっぽかった。
 いや、どうだったろう。もしかしたらスパイっぽくなかったかもしれない。本当にスパイだったっけ。そうだと思っていたんだが、こう再確認してみるとどうにもスパイらしからぬ印象を拭うことができない。何だか違うような気がしてきた。
 しかし彼女が自身のことをスパイだと言っていた覚えはあるし、並々ならぬ戦闘能力を有していた、ということはどことなく記憶に残っているので、とりあえず彼女の肩書はスパイということにしておいていいだろう。
 情報は以上である。
 そう、困ったことに、僕が持つ、彼女について確実性のある情報というのは、このたった二つしかないのだ。あまりにも少なすぎる。
 さらに残念なことに、情報その一は、情報その二を組み合わせてしまうと一気に信憑性が薄れてしまうのである。というのも彼女はスパイであり、自身の正式な情報を濫りに外部に漏らしたりするはずがない。であるから、僕に教えてくれたであろうさやという名前は、恐らくはコードネームのようなものだろうが、つまり偽名の可能性が高い。
 そしてさらに悲しいことに、そのスパイという情報も、あくまで僕が「そうだったような気がする」という程度のものであり、今でさえどうだったか判然としないものであるので、確信性は少しもないのである。
 確実性のある、というのは、あくまで僕の持ち得ている情報の中でよりそうであるというだけの話であり、客観的に信憑性のある情報は全くなくて、彼女の存在を特定するために使える情報は一つとして存在しない、というのが正直なところなのである。
 だからといって、特に悲観はしていない。それは前からわかっていることで、今回書き出してみてそれを再確認した、というだけのことだからだ。彼女があの世界において特殊であった、ということは今更なことなのである。
 あの世界の主要構成人員は、自分と鈴を外したリトルバスターズのメンバーであった。そして、恭介は言っていた。「一学期を永遠に繰り返す」、と。
 これまた自信がないのであるが、あそこで繰り返した一学期、というのは全てが同じではなかったと思う。微妙に、もしくは大きく変わったこともあったはず。そうでなければ、親友である彼女らについて詳しく知っている自分がおかしいことになる。あの一学期という時間の中で知り得る量にしては多すぎるからだ。
 しかしながら、その中でもいつまでも変わらないものがあった。それは例えば「野球をすること」であったり、「小毬さんや他のみんなと出会う」ことであったり。ある程度、現実の一学期で起こった出来事は、あの世界においても同様に起こっていたのだと思われる。
 この推測もやはり推測の域を出ないわけなのだが、これを前提として考えた時に、かの女スパイはやはり不審な点が多すぎるのである。
 そもそもスパイという時点でおかしい。しかも銃を持ってた。僕も持った。人も撃った気がする。彼女の死に際を幾度と見たような気もする。学園内に迷宮が存在するとかいって二人で夜な夜な忍び込んでいたとかいう、妄想かどうかもわからない記憶がある。
 そんなこと、一学期に僕が体験していたというのか。それはありえない。
 僕は間違いなく、と言い切れるくらいに夜は幼馴染と、新しく入ったリトルバスターズメンバーと面白おかしく騒いでいた自信がある。実際の一学期にスパイと名乗る女と出会ったなんてことは、絶対にないだろう。
 僕の通う高校とその近辺を精確に構築し、そこを舞台としたあの世界で、学校の人間でなく、誰とも関わりがない。
 肩書、行動、境遇、そして存在自体そのものが、あの世界においてイレギュラーであったのだ。
 そう、イレギュラー。
 彼女はあの世界における異分子であり、本来居るべき人間ではなかった。いや、そもそも人間であったのかどうかもわからない。恭介の言う「臨死状態」があの世界に入る条件であるとするならば、それを達成しさえすればなにものであっても入れるわけだから、イレギュラーたる彼女を「人間」と定める必要はどこにもないのである。
 例えば、あの近辺で餓死寸前で倒れていた熊とか。
 偶然あの世界に迷い込んできたその熊は、過去に山に投げ捨てられていた漫画か何かを読んでいて、人間のそんな恋とか青春とか生活とかに憧れちゃって、これ幸いと言わんばかりにその設定を借りて僕の前に現れたのかもしれない。そうなると、僕は熊相手に色々とこっぱずかしいことをしていたということになってものすごく壁に頭を打ちつけたくなるのだが、けっこうありえるだけに笑えない。
 そして今書いていて、もう一つの説を思いついた。それは、あの世界に入る条件とかそういったものを超越した存在、という可能性である。
 例を挙げるなら、宇宙人。
 火星でも金星でも謎の小惑星でもいいが、調査とか何とか言って地球にやってきた宇宙人一行(もしくは一人)は、偶然事故現場近辺を通り過ぎた時にあの世界のことを感知して、「ほぉ、地球人はこういった能力も持ち合わせているのか」とか言って興味持っちゃって無理やりあの世界に突っ込んできたのかもしれない。宇宙人だもの、それくらい可能だと思う。
 そしてある程度調査とかしちゃってるから、男は女に弱いとか美少女ってどういう感じなのかもわかってて、それっぽい容姿に整えて、どこかの漫画か何かから仕入れてきた情報を借りてそれっぽい舞台を用意して僕の目の前に現れたのかもしれない。そうなると、僕は宇宙人相手に色々とこっぱずかしいことをしていたということになり、ものすごく怖くて自分が近い将来どうなってしまっているのかを考えるとおちおち夜も眠れなくなるのだが、宇宙人とそういうことした自分って実はけっこうすごいんじゃないかとちょっと嬉しくなったりするのも確かである。地球人第一号だ。
 そういえば彼女はタイムマシンがどうとか言ってた気がする。時空間がどうとかタイムパラドックスがうんぬんとか、そういったことは地球上のニンゲンにのみ通用する理論であり、宇宙人が既に自由にタイムマシンを使うことができたとしても、何らおかしなことではない。だって宇宙人だもの。
 そう考えると余計にこの説を信じたくなるのだが、しかし何度も言う通り、彼女自体に不確定要素が多すぎ、持っている情報も少ないために、あらゆる側面から攻めたところで出てくるのは推測でしかないのである。推測どころか、もはや妄想の類だ。しかし、それくらい彼女の像というのが不鮮明なのだから仕方がない。
 結局、現在の僕の持っている情報、知識、その他諸々総動員しても、何も見つけられはしなかった、ということである。勢いに任せて書きなぐったおかげでわりかしすっきりした感はあるが、女スパイについての謎を明かすどころか、余計に謎が深まってしまったのは心残りである。が、それは未来の僕に任せたいと思う。これを後に見た、成長しているであろう僕が、何かしらの答えを見つけてほしい。ひいては、あの女スパイと――
 
 






「――再び出会っていたらいいなと思う」

  大学ノート三ページに渡ってびっしりと書かれた日記を、あやはベッドに寝たまま、延々と、淀みなく、淡々と朗読してみせたあと、横のパイプイスに腰掛ける理樹に向けて、「で?」と言って、笑った。
 それはもう、にっこりと。
 厚い凍雲に覆われた空の下で、ならい風が枯れた木々を大きく揺らしているのがはっきりと見て取れるくらいに寒々とした窓の向こうの様子とは裏腹に、あやのその笑顔はまるで春暖の桜並木の中に降り注ぐ一筋の木漏れ日のような、柔らかな暖かさと優しさを湛えていた。
 そんなあやの表情を見て安心したのか、理樹も笑って言った。
 それはもう、てへりと、悪戯がばれた小僧のように、笑って言った。

「うん、だからね、僕はこんなにもあやのことを――」
「この大バカヤローーーーーーーーーー!!!」

 一瞬にしてあやは怒り狂って叫んだ。
 春雷。
 穏やかな春にも雷は鳴る。
 そんな言葉は全然関係なく、そしてそんな病院の一室に吹き荒れた嵐など知る由もなく、世間は実に冬だった。




ストラックアウトで言うなら五番

written by marlhollo 


 
 
 
  「お静かに願います」が決まり文句で常識である病院内において、あやの一球入魂の絶叫は当然の如く病院中に響き渡ると共に、甚大な被害をもたらした。
 具体的に言うと、先月交通事故で足を骨折してしまったために入院中であるあやと同室のトネさん、安蔵さん夫婦が唐突なあやの声にびっくらこいて心臓が飛び出しかけたどころか魂が飛び出しそうになっていてけっこう危機に直面していたり、雲行きが怪しくなってきたからと屋上に干していたシーツを取り込みに来た新人看護師絵梨さんが唐突に吹き上げてきた風にワンピースタイプの白衣が思いっきり捲られて毒々しいワインレッドの下着がお目見えしてしまって誰かに見られやしなかっただろうかと誰も居ない屋上で挙動不審になっていたり、病院の前の歩道を散歩していた小学生未緒ちゃんに連れられていた飼い犬カンタが唐突に顔をあげるとワンと一声鳴いて小便をして未緒ちゃんに怒られたりした。
 周囲にこれ程のダメージを与えてしまったにも関わらず、犯人であるあやはというとあの爆発だけでは怒りは収まりきっておらず、ふーふーと荒い息を吐きながら理樹を睨みつけていた。

「どう考えたらこんな話になるのよ!? 理樹くん頭おかしいんじゃないの!?」
「いやいや、あれでも僕は一生懸命考えたんだよ」
「どこをどう見ても一生懸命に見えないわっ!」
「えー、そうかな」
「そうよ!!」

 「理樹くんあたしを怒らせに来たのね!? そうでしょ、そうなんでしょ!?」と怒りまくるあやに対し、どうどうと、牙を剥く獣を宥めるかのように冷静な対応を見せる理樹。そんなところもあやにとっては苛立たしかった。
 理樹が半年前に綴ったらしい日記。
 これが書かれてから約一ヶ月後に二人は邂逅を果たしたわけなのだが、それも、理樹の通っていた病院で「あそこでちょっと前に事故に遭った子がいたのよね。今でも入院してるらしいわ」なんていうロールプレイングゲームに登場する村娘ばりに好機で有益な情報をくれた看護師の存在がなければ到底あり得るものではなかったわけで、あまりに情報が少なすぎること、そして理樹達が体験したあの世界の珍妙さを考慮するならば、理樹のあんなとんちんかんな発想も正直バカにできるものではないのかもしれないが、だからといってそれであやが納得できるのかといえば、もちろんそうではなかった。

「考えて熊!? 火星人!? 変よ、どこからどう見ても変でしょ! 書いてる途中で気付きなさいよっ!」
「あらゆる可能性を考慮する。それが男ってもんさ」
「何が男よ!? 意味わかんない、もーわけわかんない! わかーんなーい!」

 あやがうがーと吠えまくりながら、ジタバタとベッドで暴れまわる。
 その横で、命の危機に瀕していたトネさんと安蔵さんがひっそりと息を吹き返していた。弾かれたように体を起こし、周りを見渡して、最後に二人顔を見合せ、そして微笑んだ。この老夫婦ももしかしたらこの間に水の波紋がどうとかいって永遠に過去数か月の時間を繰り返す不可思議な世界に誘われ、その中で現れた幾多の難関を苦しみながらも何とか乗り越えて、「わしゃぁ生きるんじゃ」とかいう強さを得てこうして世に戻ってきたのかもしれない。そして今、安蔵さんが「これからも共に生きるぞ」とか言って、トネさんが「そうじゃな、お前さんが居れば生きていけそうな気がするわい」とか言っちゃったりしていたのかもしれないが、残念ながらそんな世界に突入したのかは定かではないし、あやの物音と文句が喧しすぎるために、そんな会話がなされたのかどうかも、やっぱり定かではなかった。

「もう、理樹くんなんて知らないっ」

 とうとうヘソは曲がるところまで曲がってしまって、ついにあやは布団の中に潜り込んでしまう。
 自分のことを考えていてくれたとはいえ、熊だの得体の知れない未知の生物だのと言われるなんて、怒らない方がおかしいのよとあやは暗がりの中で剥れた。
 怒らない女性も数多くいると思われるが、こういった男女の交流という部分に、あやは過去に触れることができなかったという自身の体験もあってか、何かしらの幻想を抱きがちなところがある。何も一昔前のこてこてな少女漫画のような展開をお望みなわけではもちろん、少しはあって、でもそこまで高望みするつもりは当然なかったのだけれど、それでも、せっかくのクリスマスなのだから少しくらいロマンチックなムードにしてくれたっていいじゃないと、六人部屋の病室に置かれたベッドの中にくるまりながらあやは思うのだった。 

「あやー、機嫌なおしてよー」
「………」
「ねぇ、あやったら」
「………」

 布団の外で、理樹のそんな声が聞こえてきたが、あやはぎゅっと口を閉ざし、布団を掴む手の力を強めた。
 返事なんてしてやらない。するもんか。
 困ったなー、という理樹の声が聞こえるが、その調子はやはりどことなくのんびりとしている。あたしが何で怒っているのかわかっているのか、と問い詰めたくなったが、寸でのところで我慢した。

「あ、あや! 雪、雪だよ! うわーすごいなー、この勢いだと積もるかもねー!」
「………」
「ほらあや、見てよ! すごい降ってるよ!」
「……雪なんて冷たいし滑るし邪魔だから嫌い」
「うっ」

 より剣の帯びた声を出すと、さすがの理樹も声を詰まらせたようで、焦ったような声は聞こえなくなり、しんとした沈黙が訪れる。
 確かに、外ではいつの間にか雪が降っていた。一センチほどもある大きな綿雪がいくつもふわふわと空を舞い、時折強い風が吹くと斜めに吹雪いている。まだ三時を回ったところで気温は一応零度を上回ってはいるが、既に日は暮れ始めていて、空に浮かぶ雲はより黒く見えている。氷点下になるのも時間の問題であり、雪も当分止みそうにはなく、淡雪にしろ、積もることはまず間違いなさそうだ。
 とはいえ、である。
 あまり雪を見ない地域に住む理樹とは違い、あやはこの地で幾度と雪を見ている。積雪による弊害も身に染みるほどわかっているし、一面銀色の世界にはしゃぐ年でもない。残念ながら、理樹の知らせた事実はあやを一層うんざりさせるものでしかなかった。あやはわざと大きく寝返りを打ち、もう一度深く布団に潜り込むことでそれを主張した。本当に、何にもわかってないんだから、理樹くんはと、声を大にして言いたい文句は喉元まで出かかっていたけれど、今更それを言いに出るのは憚れるくらいに引っ込みがつかなくなっていて、その言葉は結局喉元で留まるだけに終わっていた。
 理樹がはぁと溜息を吐いて、椅子に座り込むのがわかる。打つ手なし、といったところなのか、何かしてこようという気配は感じられない。先ほどまでの怒涛な勢いは瞬く間に消え去り、仲違いしていることによる、重苦しい空気だけが二人の間に残った。
 こんなつもりじゃなかったのに、なぁ。
 あやも気取られぬ程度に息を吐く。せっかくのクリスマスだからと楽しみにしていたのに、結果は散々。ゲレンデが溶けるくらいに恋している男の子が目の前に居るというのに、こうして拒絶している自分が随分惨めに感じられる。真冬の恋は絶好調とは到底言えず、スピードに乗っているのは二人の擦れ違い具合だけだった。
 本当に、素直じゃないなぁ、あたしって。
 そんなに怒るところでもなかったのに、と後悔を噛みしめるかの如く強く目を瞑った時、布団の外から「そうだ」という声が聞こえて、あやはすぐに目を開けた。闇に慣れた視界に見えたのは、白い布団とシーツ、そして布団を掴む自分の腕だけだったが、その声が理樹のものであったことは別に視覚に頼る必要もなくわかっていた。何がそうだ、なのだろうなんて薄らと見える自身の腕を見つめながら考えていると、また声が聞こえてきた。

「あーあ、せっかくあやにクリスマスプレゼント持ってきたのになぁ」

 あからさまに大きな声で言われた言葉にあやがぴくりと反応し、それに釣られて布団が動いた。慌てて身じろぎ一つしないよう身を固める。ここで出たらプレゼントがほしいがために出てきたみたいに思われそうで何か癪だと思い、あやはじっと理樹の言葉を待つ。

「これじゃー渡せないなぁ。どうしよっかなぁ、これ」
「………」
「しょうがない、これは帰って鈴に渡そっと」
「……ダメ」

 布団の横から少しだけ顔を覗かせて、あやはぼそりと言った。決意はものの数秒で崩れ去っていた。
 理樹があやの方を見て、にこりと笑った。暑かったということと出てくることに対する恥ずかしさから、ほんのりと赤く染まっていた顔をさらに赤くさせて、あやはぷいと顔をそらした。布団の中には戻らなかった。

「あや、やっと出てきてくれたね」
「……それ」

 「これ?」と言った理樹の方をそっと盗み見ると、鮮やかな赤色の包装紙に包まれた、理樹の前膊ほどの長さの細い箱が掲げられていた。

「これはあやにあげようと思って持ってきたんだけど、もらってくれそうにないから鈴にあげようと――」
「ダメ」
「え?」
「その、鈴って子にあげちゃ、ダメ」

 いじけた子どものように、幼い口調であやが言う。
 鈴という子については、過去の見舞いの時に聞いていたのでそれなりには知っていた。幼馴染だということ、最近友達がたくさんできたということ、ライバルとよく争っているらしいこと。理樹の口から鈴に関する話が出る度に、本当に理樹くんは鈴さんのことをよく知ってるんだなぁと、あやは微笑ましく思いつつも、軽い嫉妬を覚えていた。だから、そんな子にプレゼントが渡されるなど、あやには我慢できなかった。

「ほしい?」
「……うん」
「じゃぁ、はい。メリークリスマス」
「あ……あ、ありがとう」

 照れもあったのか、理樹はあやをベッドの上にきちんと寝かせてその箱を手渡すとすぐに離れてしまったので、何だかずいぶんあっさりしてて物足りないようにあやは感じつつも、やはり嬉しいことには変わりなく、上半身だけ起き上がらせてから箱に手をかけ、ゆっくりと包装紙を剥がす。中には黒色のケースがあって、それの上蓋を外した。
 わぁ、とあやが感嘆の声を上げた。開けた中には、ネックレスが入っていた。シルバーチェーンに、薄いピンクに彩られた二連リングがついている。

「実は、それの色違いもあるんだ」
「え?」

 そう言って理樹が椅子の下に置いていたトートバッグから取り出した箱には、あやがもらったのと同じようなネックレスが入っていた。リングの色がピンクではなく青という部分が違うようで、この二つは対になっているようであった。理樹の手に乗っているリングを惚けたように見つめて、あやがぽつりと呟いた。

「それって、つまり」
「ペアネックレスってこと」
「……そう、なんだ」

 はにかむ理樹に小さな声で言うと、あやは再びもらったネックレスを見る。そして、ペアネックレスという言葉をゆっくりと頭の中で反芻する。脳内でその言葉をなぞる度に、あやの頭は甘く痺れて、夢見心地な気分になった。喜びが体中に満ち、溢れ出してきて、あやはたまらずえへへ、と笑った。

「嬉しい。嬉しいよ、理樹くん」
「本当?」
「うん。こんなに素敵なものをくれて、本当にありがとう、理樹くん!」

 溢れる笑顔をそのままに、あやは理樹の方を見た。すると理樹は何かバツが悪そうに苦笑して、頭をがしがしとかいていた。それを見て、嬉しい気持ちがすぐに静まっていく。どうしたのだろう、とあやは笑顔を引っ込め、眉を潜めて尋ねた。

「どうしたの?」
「いや、その……許してくれる?」
「許す?」
「その、さっきの」

 ぼそぼそと言った理樹の言葉に、あやは、あ、と間抜けな声を上げた。プレゼントを貰った嬉しさで、つい先ほどの事が頭から抜け落ちていた。そんなことはもはやあやにはどうでもいいことで、理樹がいまだに気にしていることに驚いたりしていた。だから、あたしこそごめんと言って、さっさと全てを水に流そうと思った。
 しかしその刹那、本当にここで全てを片づけていいのだろうか、という疑問があやの心に浮かび、許そうとした自分を留まらせる。こんなに素敵な時間を、これだけで終わらせていいのだろうか、と思案する。
 もう少しだけ背伸びしたい自分がいた。そしてそのために、意地悪な仕返しをすることが頭の中を過った。

「……許さない」
「え?」
「ちゅーしてくれないと、許さない」

 言ってから、しまったと思った。なに調子に乗ってこんなこと言ってるんだあたしは、と顔が火を噴きそうなくらい真っ赤になるのがわかった。
 ごめん今のやっぱなし、と言おうとしてあやは顔を上げた。しかしそこには、照れたようにそっぽを向きながらも、そんなに嫌そうにしていない理樹の姿があった。

「それで、許してくれるの?」
「え、へっ? あ、う、うん」

 流されるように頷くと、だったらじゃぁ、と言って理樹がベッドに上がってきた。またやってしまった、と思ったが、今度は違う、と言おうとは思わなかった。一瞬にしろ、まさか本当に願った展開が今こうして現実となっていることに少なからず喜び、このあとどうなってしまうのかという期待と緊張が、あやの胸を支配した。
 ゆっくりと理樹が近づいてきて、あやの肩に手をかけた。緊張しているらしく若干強張った理樹の顔が近づいてくる。心臓の音がどくどくと喧しいくらいに感じつつ、理樹くん唇きれいだなぁとか、やばいあたし絶対顔真っ赤だなぁ、なんて暢気な感想をあやは胸中で漏らす。そこでいつの間にか理樹が目を瞑っていることに気づいて、いつまで自分は目を開けてるんだと慌てて瞼を下した。
 閉ざされた視界の中で、理樹の熱い息が頬を撫でていくのを感じた。すぐそばに理樹が居ると思うと頭が真っ白になり、鼓動がさらにうるさくなる。もう何も考えられず、身を委ねるようにそっと唇を差し出した。


シャッ!


「病院内での不埒な行為を見過ごすわけにはいきませんということでお父さんが来ましたよっと」
『………』
「ごめん、邪魔した。ちょっと絵梨ちゃんとデートして時間潰してくる」

ぶしつけに現れたあやの父はすぐさま踵を返した。毅然としていた顔が一瞬にして涙目になっている。
母さん、あや、成長してるよ。

「ちょっと待って違うの違うの! お父さん出ていかなくていいから!」
「え、でもこれからホワイトな何かが飛び散る熱くて粘っこい素敵なクリスマスになる予定じゃ」
「娘に下ネタ言うなこのドエロ!」
「どうも直枝です。お義父さん、あやさんを僕にください」
「どさくさに紛れてなに言ってんのよあんたは!」
「直枝くんうまいことやったねぇ、誰も来ない部屋紹介してあげるよ」
「いいんですか?」

 いつの間に仲良くなったのか、いけしゃあしゃあと連れ込む部屋の相談をする理樹と父。友達と言い含めていたはずなのに、父は既に彼氏と思い込んでいるらしく、娘の成長が嬉しいのか、いつになく笑顔が眩しかった。そしてそんな笑顔なのにしている会話がえぐいのが、あやには我慢ならなかった。

「この人は彼氏なんかじゃない! そう、強姦魔よ、ごーかんま! こいつ無理やりあたしを汚そうと!」
「え、そうなの? でも直枝くんは前から何度か来てたじゃない、というか仮に強姦魔だとして、あやもまんざらでもなさそう顔してたし……あや、お父さんあまり口出ししたくないけど、そういうプレイを好むってのはちょっと頂けないな」
「ち、違うっ、そんなんじゃない! お父さんが見間違えただけ――」
「どうも、強姦魔の直枝です。お義父さん、あやさんを僕にください」
「だからあんたなに言ってんのよ!? つーかおかしいでしょ今の! それで許されると思う理樹くんむしろすご、ってちょっとトネさん今の話本気にしないでっ、花瓶持ってこっち来ないで顔必死すぎるからーーーっ!」


 外ではしんしんと雪が降り積もる。
 暗くなり始めた街並みを彩るイルミネーション。
 世間は冬、ホワイトクリスマス。
 冬の夜のラブロマンスには程遠く、二人の恋を永遠に誓うなんてこともなかったけれど、病院の一室におけるクリスマスという日は、騒がしくも楽しく過ぎ去っていくのだった。
 



    
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