「んー、んー……リキー、わかりませーん」
「え、どこがわからないの?」
「あ、はい。その、ここなんですが……」

とある放課後、僕とクドは、家庭科部部室で学生の本分である学業に勤しんでいた。
もうそろそろ期末テストも迫っているということで、クドから英語の勉強を教えて欲しいと頼まれたのだ。
そして言を俟たずして僕はそれを快諾し、久方ぶりの二人だけの勉強会が、霜月の半ばに開かれることとなったのである。

「――っていうことなんだけど……」
「あ、なるほどです、わかりましたっ」
「そう? よかった」

ぱぁっ、と顔を明るくさせて頷いたクドに、僕も笑い、頭を撫でてあげた。
さらさらとした髪の感触と、温かな体温と、はにかむクドのいじらしさに、思わず頬を緩めてしまう。
どうやら、と言ったらいいのか、やっぱり、と言ったらいいのか。
僕は、クドにベタ惚れらしいことは、どうしようもないくらいに明白だった。

今年の春から何かと英語の向上に努めてきたらしいクドに、ようやく成長の兆しが見え始めていた。
確かに苦手科目とあって理解速度は遅いものではあったが、春先を思い返せば、見違えるに読み書きが出来る様になっていた。
会話の方も来ヶ谷さんから色々教わっているそうだ。
そっちの方はまだまだと言った感じらしいし、さすがにここの環境下で流暢な喋りになるのは厳しいものがあるだろうが、少なくとも、いずれはあの舌足らずな発音は改善されることだろう。
あれはあれで可愛らしいと思ったり思わなかったりするが、クドに今必要なのは、目に見えた成長だろう。

「あの、リキ?」
「ん?」

辞書を捲りながら、クドが急に声をか細くさせて、言った。

「私も、こうして頑張っていれば、いつかは……いつかは、おかあさんみたいになれるでしょうか?」
「……」

そう、こんな風に、クドは強い不安に苛まれる時がある。
目に見えた目標はある、しかしながら、そこまでの道のりは、果てしなく遠い。
走っても走ってもその後姿は米粒みたいに小さいままで、手を伸ばしても届かない。

「大丈夫、絶対なれるよ」
「わふっ」

クドを胡坐をかいた足の上に乗っけて、抱きしめる。
そんなクドの気持ちを和らげる為に、僕は着いているんだと思う。
そう、思っている。
大丈夫だって、クドならなれるって。
そう励ますのが、彼氏としての役目だと思ってるし、僕はそう信じている。
相変わらず小さくて、でも柔らかくていい匂いで、つややかな気持ちのいい髪。
もしかしたら、安心を求めているのは、僕かもしれない。
信じているけれど、彼女の母は偉大な人で、彼女の歩もうとしている道は、僕が軽々と応援出来るものではないくらいに、辛い道なのかもしれなくて。
僕の励ましは、もしかしたらクドを徒に意気込ませているだけなのかもしれない。
そう思うこともある。
だから、一緒に頑張ろうって、僕は何も出来ないけれど、傍にはいるよって。
存在を示す様に、僕はクドと肌を合わせようとするのかもしれない。

「リキ、あったかいです……」
「うん、僕も、あったかいよ」
「リキ……」

最初は驚いた様に身体を硬くさせたクドだったが、いつの間にか力を抜き、僕の胸元に顔を埋めていた。
彼女の漏らす息が胸元に当たって、温かい。
とくんとくん、と心臓の音が聞こえる。
それは誰のものなのか。
僕なのか、クドなのか、それとも両方なのか。

「あの、リキ」
「ん?」
「キス、してほしいです……」

胸元から顔を上げたクドが、顔を上気させてそう言った。
それは凄いいい案だ。
僕もしたい、今すぐにでもクドの甘い甘い匂いに包まれ、熱い吐息に頭の芯を心地よく痺れさせながら、その薄桃色の唇を堪能したい。
本気でそう思った。
だから、僕は――

「……」
「……リ、キ?」

おでこにキスをして、クドを解放した。
額にされたことにクドは暫し呆然として、そして少し恥ずかしそうに額を両手で抑えて、でも不満なのか、縋る様に僕を上目遣いで見てきた。
ごめんね、クド。
本当は僕だってしたいんだけど、でも、でもね。
逃げる様にしてテーブルの反対側に逃げた僕は、シャーペンを握りなおし、笑いかけながら言った。

「クドが今日の分の勉強をしっかりしてから、ね?」
「……え?」
「頑張ったご褒美ってことで、最後に好きなだけした方が、気持ちいいと思わない?」
「あ……は、はいっ! 私頑張りますっ!」

輝くような笑顔で、クドは言った。
僕らはこうして頑張れる。
これがいいのかもわからないけど、僕らはお互いを求め合って、確かめ合って、頑張っている。

「じゃぁ、問題集の四十五ページの――」
「ふんふん」

クドのお母さん、あなたの子どもは、あなたに辿り着こうと、頑張っています―――。










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