「あれ、西園さん、まだ残ってたんだ」
「えぇ、少しやることがありまして」

夕暮れに染まるグラウンドを引き上げ、部室に戻ってきた理樹は、そこにまだ人が残っていたという事実に若干の驚きを顔に表した。
心身共に成長した理樹は、何故か野球に目覚めてしまい、以前にも増してそれにのめりこんでいたりする。
着実に成長出来ていることを実感出来るのが楽しくて仕方がないらしい。
最近では普段の練習だけでは物足りなく感じつつあるのか、今日は恭介の練習終了の声を聞いてもなお、自主的に居残り、素振りをしていたのだ。
そこには、別段高校球児になろうだとか甲子園を目指そうだとかは考えているわけではなくて、たまたま『強くなる楽しみ』を得る手段として、野球を取ったに過ぎない。
彼が本気でその道を目指す可能性というのは必ずしもゼロと断言できるものではないが、少なくとも現段階では、お遊び野球の延長線上としか考えていない様だ。
真人が格闘技やスポーツをするわけではないのに、毎日の筋トレをかかさないのと同類のものであろう。

メンバーがグラウンドを去ってから、既に40分近く経っていた。
つまり彼はそれ程の時間バットをひたすら振り続けていたのであり、だからこそ未だに、部室に美魚が残っている事に驚いたのだ。
彼女も他のメンバーと共に、40分前にグラウンドを去っていたことは言うまでもない。

「……よっこらせ、と」
「年寄りくさいですね」
「ははっ、さすがにちょっと疲れちゃったからね」

冷淡に指摘をする美魚に対し、特に機嫌を悪くするでもなく、理樹は窓際の椅子に深めに腰掛けながら苦笑し、おもむろに周りを見渡した。
無造作に立てかけられたバットや傘、テーブルの上の微妙な乱雑具合。
床やロッカーも心なしか土埃を被っている様に見えなくもない。
掃除は、いつ以来していなかったか。
細部に目を凝らせば汚れが見て取れるこの部屋を眺め、理樹はぼんやりとそんな事を思った。

「……」
「……」

視線を泳がせていた理樹であったが、気づけばいつの間にか、とある場所へと目を注いでいた。
直線上、距離にして約2メートル先。
彼の背後の窓から注がれる強い夕陽に目を細めることもなく、そこはかとなく優雅でありながらも多分に慎ましさを滲ませながら、テーブルに置かれた冊子のページを捲る、青髪の少女。
兎の様に白い肌は陽射しによってほんのりと橙に染まり、茶色の瞳もそれによって赤となっている。
本当に、兎みたいだ。
牧草なんか上げてみたらもしゃもしゃと食べてくれるだろうかと、理樹は彼女の美しさによって、些か錯乱状態に陥っていた。
どぎまぎしていた。
どきどきしていた。

「そ、そういえばっ!」
「はい?」
「西園さんの用事って何だったのっ?よかったら手伝おうかっ?」

自らのそんな感情をかき消すかの様に、声を大きく張り上げた。
瞬く間に湧き上がった気恥ずかしさに、理樹は耐えられなかったのだ。
後数秒遅ければ、完全に頬が赤らんでいたであろうことをわかっていた。
そのお淑やかな印象とは裏腹に、悪戯好きな面も持つ目の前の少女にそんな所を見られてしまったら、何を言われるか、ネタにされるかわかったものではないということも、十分すぎる程に理解していた。
だから彼は、己の咄嗟の行動は最適であったに違いないと信じて疑わなかった。

「今読んでる、それが用事?」
「いいえ、これは全く関係ありませんよ?」
「え?じゃぁ用事って」
「……そうですね。端的に言うのであれば――」
「?」
「直枝さんの、最近の目に余る不純異性交遊についての詰問、ですかね」
「……は?」
「……古式みゆき、さん」
「っ!?」

美魚の口から紡がれたその名前に、理樹は面白いくらいに体を震わせた。
漫画なら『ギクッ!』と文字として現れそうなくらいに。
つまり、彼にはその名前と美魚の言う『不純異性交遊』との関連に、少なからず心当たりがあるということで。
西日に染まる彼女の美の中に、先ほどとは違う、何か冷徹な香りが立ち込め始めた事にも、気づいてしまったのだ。

「先週の土曜日、放課後の練習を無断欠席したかと思えば、古式さんとウインドウショッピングに出かけていたそうで」
「うっ」
「さらに聞くところによると、彼女に新しいリボンもプレゼントなんかもしちゃったそうじゃないですか」
「う、うぐぅ……」

自然と細められた彼女の目に、理樹はたちまち動きを封じられ、傍目にもはっきりと分かる程に、額に脂汗を滲ませていた。
冬の街に生息するらしい鯛焼き娘の口癖まで呟いてしまう程だ。
彼の狼狽ぶりは相当のものである。
バレてた。
理樹の心はそれ一色に染まっていた。
確かに不備は至るところにあった。
正直バレてしまう可能性はかなり高いだろうと、彼自身も踏んでいた。
だが、とりわけ恋愛事情に関しては寛容な心を見せていた親友達であったから、『まぁ何も言われないだろう』という、マックスコーヒーも吃驚の甘い考えを抱いてしまったのだ。
ふ、不覚……っ!
自らの準備の拙すぎたことと。
最適だと疑わなかったそれが薮蛇であったことに、理樹は今ようやっと気づいたのだった。

「鈴さんが怖い顔してましたよ?能美さんや三枝さんの笑顔も曇ってましたね……神北さんと来ヶ谷さんはどうかはわかりませんが」
「……ど、どこでそれを」
「直枝さん。私達は、あの、リトルバスターズですよ?」
「そ、そうですね」
「つまり、そういうことです」

どういうことだよ!
理樹は思わず心の中で叫んだ。
口に出さなかったのは、その後に待ち受けているであろう彼女の絶対零度の瞳と口撃を怖れてのことであったことは、言うまでもない。
心の内を見透かした様に鋭い視線を突きつける美魚の姿を見る限り、彼のその判断は賢明であったという他ないだろう。
最も、だからといって事態が好転するわけもないのだが。

「鈴さんは今日も怒ってるでしょうね……今夜直枝さんの部屋に行った時、どうなるでしょうか」
「……」
「能美さんや三枝さんは今日も枕を濡らすのでしょうか……あぁ、それよりも、来ヶ谷さんがからかう準備を整えるのが先でしょうか」
「に、西園さんっ!」
「はい、何でしょうか?」
「……ど、どうか、口添えの程、お願いしたく」
「……」

椅子から飛び降り、黒のハイソックスに包まれたしなかやかな曲線を描く御御足の前に、理樹は頭を垂れた。
教師だったか教科書だったか、とにかくどこかで聞いたかなーくらいの、つぎはぎだらけの知識だけをフル稼働させて。
何だかかつて昔に、日本か外国かも知らないけどあったっぽい儀式めいた装いを、理樹は取り繕った。
もはやプライドなどない。
いや、そんなものなど端からない!
西園さんちの娘さんがお怒りになってるんだ!
問答無用で従うに決まってるだろ!
ほらそこ、角度甘いよ!

「……直枝さん」
「はい」
「仏の顔も、三度までですよ?」

つまり後1回はやんちゃしてもいいんですねと一瞬浮かべたそれを、理樹は即刻もみ消した。
目線が地を向いていて顔が見えずとも、旋毛に注がれる何かが、またもや見透かした様に一層攻撃的になったからだ。
四面楚歌。
理樹にもはや、逃げ道はなかった。

「もし今度、誰かとデートをする様な時は?」
「き、きちんと皆さんに事前に報告致します」
「優柔不断は良いことありませんよ?」
「返す言葉もございません……」
「私の事は?」
「……ぅ、ぁ、いや」
「ふぅ……まぁ、そういう所も分かってて、私はあなたの傍にいるんですけれどね」

わざとらしく溜め息を吐いた後、跪く理樹の手を引いて立ち上がらせ、膝の汚れを軽く叩いて取り、乱れてもいないネクタイを整えてあげる。
あまりに自然で、そして軽やかに行われたそれらは、理樹が美魚と吐息のかかる距離で密着している事に気づいて顔を赤らめるまで、暫しの時間を必要とさせた。
あからさまに体を強張らせたものだから、当然彼女も恥ずかしがっていることに気づく。
彼の顔の赤みが夕陽のせいだけではないことももちろんすぐに理解して、美魚は幼子に向ける様な、優しげな笑みを浮かべ、とんと理樹の胸板を押して距離を開いた。

「直枝さん」
「は、はいっ」
「そういえば私、新しい本が買いたかったんです」
「ほ、ん?」
「今週の土曜が暇なんですが……」

そこまで言って、思わせぶりに視線を向ける。
鈍感、優柔不断、ムッツリスケベと最近イイトコなしの理樹ではあるが、さすがにこの場面で彼女が言わんとしている事がわからない程、鈍くはなかった。
整えてもらったネクタイを再度自分で締めなおし、でもやっぱり気恥ずかしさは取れないのか、はにかみながら。

「じゃ、じゃぁ……土曜日、一緒にいこっか?」
「はい」

これはつまりデートだから彼女の命令に従うのであれば他のメンバーに報告した方がいいのだろうか、と不安を募らせ。
でもそんな事もあっという間に霞ませてしまうくらいに、相変わらずの西日によって輝く彼女の微笑は、理樹を見事なまでに見惚れさせるのだった。



そして結局、またもや報告をおざなりにしてしまった理樹が騒動に巻き込まれるのは、別のお話。






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