「最近、たるんでる気がするわ」
「え?お腹?」
ガスッ!
「くぉぉぉ…」
閃光が走ったと思った瞬間に訪れた、側頭部への激しい痛み。
思わず頭を手で覆って辺りを見回せば、わなわなと拳を震わせる佳奈多さんが。
そこでやっと己を襲った痛みの正体を把握し、なおかつそれが起こった原因を、5秒前という過去とも言えぬほんの前の自身の言葉を振り返り、理解する。
…口は災いの元、ですか。
「最近、たるんでる気がするわ」
「テイク2ですか…」
「最近っ、たるんでるっ、気がするわっ」
はっきりと言葉を区切り、語気を強める。
正直掴みからやり直す必要があるのか僕にはその必要性を見出す事は出来なかったが、彼女には何らかの意味があるのだろうと、僕は彼女に合いの手を入れる。
「あー、はいはい。何が?」
「よくぞ聞いてくれたわね」
むすっとしつつも、話す気は十二分にありそうな彼女。
先程思い出した訓戒を生かし、迂闊な事は口に出さずに彼女の出方を探る。
「私、風紀委員長よね?」
「確認しなくても、そうだよ」
「学校の秩序を守る為に心を鬼にして生徒を厳しく律する、風紀委員長よね?」
「本心はどうかは知らないけど、まぁ外面的にはそう捉えられてるかもね」
「それが…」
そこで言葉を止め、納めたはずの拳を、再び胸元で震わせ。
ダンッ!
「何で、私はこうも毎度毎度あなたと中庭で飲み物片手にのほほんと和んでるのよっ!」
勢い良く立ち上がり、ズビシィッ!と僕を指差す。
僕の手にはオレンジジュースの入った紙コップ。
彼女の指差したのとは別の手には、ミルクティーの入った紙コップ。
授業と授業の合間のほんの短い休み時間の間に、約束を交わすでもなく幾度となくばったりと出会っては慎ましく会話をする、僕達にとってはもはや日常の一コマだった。
「これだけじゃないわよ!何度もこんな以前の私とは思えない行動をしてきた気がするわっ!」
「まぁ…前までの佳奈多さんとは違う一面を披露し続けてたねぇ…」
「でしょうっ!?風紀委員長である私がこんな生ぬるい日常に流されていてはダメ…そう、絶対にあってはならない事なのよっ!」
おぉ、バックに炎が…。
思わず感嘆の声を上げてしまいそうになるくらい、彼女は熱意に燃えていた。
そして僕は、そんな彼女に気圧されるわけでもなく、同意するでもなく…ただ、冷静にその様子を受け止めていた。
この後どうすればいいのだろうかとオレンジジュースを口に運びながら考え。
そういえば、彼女は僕に話を聞かせたのだから何かしら意見を欲しているということか。
確認を取るのも何だかおかしいだろうと、僕は空を見上げ決意を胸に秘める彼女に、ぽつりと呟いた。
「…佳奈多さんは、それでいいの?」
「…何が?」
「僕や、葉留佳さんと過ごす時間は楽しくないの、て聞いてるんだけど」
「……」
押し黙る彼女を見やりながら、僕は再度オレンジジュースを喉に通す。
何てことはない。
彼女は、『風紀委員長』という肩書きに余分な重圧を感じていただけに過ぎない。
確かにほんの前と今とでは、彼女のイメージは大幅に変化している事であろう。
しかし、それが何か彼女の委員長としての業務に差し障るだろうか。
僕は、そうは思わなかった。
「いつでも『委員長』の顔をしている必要なんてないじゃないか。そんな事は、僕らはおろかこの学校の生徒達は望んではいないよ」
「……」
「好きな時に好きな事をする。でも、頑張らなきゃいけない時は全力で頑張る……メリハリってのも、大事なんじゃない?」
「……そう、ね」
ガタンっと乱暴にベンチに座り込む。
上った血をゆっくりと落ち着かせる様に、ミルクティーを一口含む。
……今、僕かっこよかったんじゃない?
ちょっとクールな台詞とか吐いちゃったよね?ね?
「あなたの言う通りね…常時気を張り詰めていたら、周りにも気を遣わせるしね。それが健全な学校生活と言えるとは私も思えないわ」
「でしょ?それに…」
「それに?」
「佳奈多さんは、この時間、嫌い?」
彼女に向かって、紙コップをちらつかせる。
他愛のない会話だけの、何とも怠惰な時間。
もしかしたら人によっては時間の無駄と吐き捨てられてしまうかもしれない、どうでもいいような時間。
しかし…損得だけで、世の中渡り合えていけるのだろうか?
「そうね…」
くぃっと紙コップを口に傾け、一息吐いてから、一言。
「私は、少なくとも…嫌いじゃないかしらね」
ニコリと、こちらを向いて笑った。
彼女の笑顔の中ではまずもってお目にかかれない、柔和な雰囲気を帯びた母性溢れる微笑みを至近距離で食らって胸を抉られた僕は、わずかながらの時間の停止を余儀なくされた。
しかし、今の僕はクールでナイスでニヒルな、少年らしくない少年。
ここも、ハードボイルドに徹さねば。
紙コップを、くしゃりと潰す。
「僕も、嫌いじゃないよ」
「あら…相性がいいわね。ふむ?…葉留佳をかまうのをやめて、私と付き合わない?」
それは、いつだったかにも交わされた問い。
同じ様に、佳奈多さんと2人きりで…でも、あの時はこれとはまた違う雰囲気の中でされた会話。
でも、ここで問われている答えは1つしかないわけで。
渋いキャラになってる(はずの)僕には、この答えしかないのだ。
「…お断りさ」
ふっ、とキザに笑って一言。
これで佳奈多さんが『あらら。振られちゃった』と冗談混じりに言って、和やかムード突入になるに違いない。
自信たっぷりに、僕は彼女を見た。
「そう…そ、それは残念ね…」
あれぇー!?
何かちょっと凹んでる!?
「わ、私、もう行くわね…」
残りのミルクティーをさらっと飲み込んで、紙コップをゴミ箱に入れ、立ち上がる。
あれ、ちょ、ちょっと待ってよっ!
「ちょ、佳奈――」
「それじゃ…」
そそくさと立ち去る佳奈多さん。
何でっ?
どういうことっ?
わけわかんないんですけどっ!
徐々に小さくなる佳奈多さんの背中を、クールもハードボイルドもへったくれもない情けない顔で追いすがる僕なのであった。