耳に水が入ってトントンってしても中々水が耳から抜けない佳奈多

 


「……」

 トントン。
 出てこない。まったく以ってこういうときは人体の構造を呪うしかない。
 かれこれ十分は続けているのに、抜ける気配は感じられない。実は既に抜けていたり? いえ、もしそうなら、もっと聞こえやすいはず。
 相部屋の友人はヴェルカの甘え攻撃に屈して、夜なのに外出してしまった。既に風紀委員ではない私に、止める権限はない。友人としては、楽しんでいるならそれでいいと思えるし。

「………」

 このじくじくとした感じがいやに不快に感じさせる。こういうのって簡単に抜ける方法ってないのかしら。
 あまり頭を早く振ったり、強く叩き過ぎると、それでも不快になるから性質が悪い。

「じれったいわね…!」

 気にしなければどうということはないのだけれど、一度気にしてしまったものを意識の外に出すのは難しい。

 ドンドン。
 こんなときに来客? いったい誰なのよ。しかもこんな夜遅く。もし知らない人だったら一言でお帰り願おうかしら。

「誰ですか、こんな時間に」

 ドアを開けて確認すると、そこには、

「ドッキリビックリドンキーなはるちん参上です!」
「間に合ってるわ」

 ガチャリ。トントン。
 鍵を掛けて、その場で頭を振ったり飛び跳ねたり。けれど、やっぱり出ない。むずかゆい。

『ちょっとー!? 妹のこと、素で無視しないでーっ!?』

 ドンドンドンドン!

「うるさいわね。周りの迷惑になるからやめなさい」
『知らないもーん! 入れてくれなきゃはるちんミラクルダイナミックウルトラスペシウムストリウムナトリウム光線打つんだからね!』

 一部変なのが混じってた気がするわ。ツッコんでたらキリがないからツッコミはしないけれど。

「いやー、やっとおねーちゃんが心の扉を開けてくれましたよ。妹のはるちんは頑張りました」
「今すぐ閉ざしたくなったわ」

 こんな不快な気分のときに会いたくなかった。
 じくじく。耳の中でまだ水が残ってる。いい加減出ないものかしら。

「おねーちゃん、なんだか機嫌が悪い?」
「そうよ」
「お昼は理樹くんとにゃんにゃんしてたのに?」
「してないわよ! 膝枕しあってただけよ!」
「…充分にゃんにゃんしてると思うのは私だけ?」

 ハッ、不機嫌でつい変なことを口走ってしまったわ。気をつけないと。

「んー、本当に機嫌悪そうだね。何かあったの?」
「何もないから気にしないでいいわよ。そっちは宿題終わったの? もし終わってないなら私が――」
「……はるちんマックスパワー!」

 ガチャ、バタン、ガチャリ。
 あっという間に逃げ出した葉留佳は、台風のようだった。

「ふぅ…落ち着きのない子なんだから」

 トントン。気分を入れ替えてもう一度。それでもやっぱり出なかった。
 こうなったら…とティッシュを取り出し、耳に通すことが出来る程度のこよりを作る。

「これで…!」

 ………。
 格闘すること十数分。

「なんでこれでも無理なのよ! 少しくらい吸い取ってもおかしくないでしょうが!」

 段々とイライラが募ってくる。ここまでストレスが溜まることは、そうあることじゃない。
 少なくとも、最近ではこう感じたことはまるでなかったりする。その原因の大半は妹にあるのだけれど。
 部屋の中で格闘していてもダメかもしれないと思い、少し外に出ることにした。
 さすがに寝巻きのまま出る妹のような痴態者ではないので、面倒ながらも私服に着替えて部屋の外へ。
 この時間帯、出歩いている生徒の姿は少ない。見かけてもすぐに部屋に戻る人ばかりだった。
 目的もなくぶらつくのは、昔は嫌いだった。今はそうでもないけれど。
 ふと気づくと食堂に。そこは、毎日ではないにせよ、あのメンバーが集まるには都合がよく、日ごろこの時間帯でも見かけている。
 今日も御多分に漏れず、煩いくらいに賑やかなメンバーが集まっていた。その中には、さっき私の部屋を訪れた妹の姿もあった。

「あの姉は鬼です、鬼畜ですよ! 誘おうと思ったのに、無理やり勉強させやがろうとするんですヨ!」
「あの言動のどこに誘う要素があったのか詳しく教えほしいわね」
「鬼が痛ーっ!?」

 相変わらずうるさい妹を一撃で黙らせる。
 周りはそんな私に触れようともしない。ああ、なるほど。私の不機嫌な雰囲気を感じ取っているのかしら。

「よう、二木。随分とご機嫌が斜めじゃないか」
「棗先輩には関係ないです」
「そっか。おまえも一緒にどうだ、インディアンポーカー」
「興味ありません」

 一言で切り捨てる。そんな暇があるなら明日の予習でもしてたらいいのに。
 やっぱり付き合ってられない。これなら部屋で辛抱強く粘っていたほうが有意義だったかもしれない。
 そこで、ふと気がつく。

「…直枝は?」

 いつもいるはずの、目立たない…けれど、いないだけで姿を探してしまうその少年がいない。

「あいつなら寮長の仕事がーって頭抱えていたぞ」
「…馬鹿」

 わからないところがあったら素直に訊けばいいのに。一人前に役職に就いたせいで、その辺のところ麻痺してるのかしら。
 直枝がいないんじゃこの場に留まる理由はない。
 ……いえ、言い直すわ。別に直枝がいてもいなくても関係ない。この場にいる理由がないのは元からなのだから。
 部屋に戻る。ベッドの上に書き置きがあった。

『今日は小毬さんの部屋に泊まりに行ってきます。クドリャフカ』

「…今日は一人なのね」

 一人には慣れていたはずなのに、ふと覚える寂寥感。
 葉留佳一人のせいじゃないけど、彼らに毒されている感じがする。
 毒なのに、嫌な感じと思えないのは、彼らだからかしら。
 じくじく。

「…空気を読まない耳よね」

 未だに抜ける気配がない。苛立ちはさらに募る。
 ドンドン。濁音が付く程度に強くしてみるけど、まだ出てこない。

「こんなにしつこいのはまるでクドリャフカみたいね…」

 嫌らしさはこっちのほうが上だけど。
 さて…気にせず、勉強でもしていようかしら。
 明日の授業の範囲、少し不明瞭な部分もあるし。
 コンコン。

「…今度は誰よ」

 今日はつくづく私を苛立たせる日みたい。
 勉強をする気分だったのに、出鼻を挫かれるとモチベーションを上げるのにも苦労するのに。

「…誰?」

 もはや苛立ちを隠そうともせず応対する。この態度で帰ってくれればありがたいのだけれど。

「あ、佳奈多さん。ちょっと寮長の仕事の件で聞きたいことが……」

 直枝だった。
 失敗したと思った。何故そう思ったのかはわかりたくない。

「えっと…出直してきたほうがいいかな?」

 葉留佳とは違い、こちらの機嫌を敏感に察知し、一歩後ろに下がる。

「…べ、別にいいわよ。仕事なら仕方ないんだから」

 そう、仕事なら仕方ない。それに今はクドリャフカもいない。脇道に逸れることもないはず。
 机の前まで引っ張り、直枝の持ってきた書面を見せてもらう。

「どこがわからないの?」
「えっと、ここの経費の部分と、それぞれの認可申請の……」

 っ。直枝の顔が私のすぐ隣に。ドキドキ、と胸が高鳴る。な、なにドキドキしてるの、私は! 今は公私の公よ。しっかりしなさい、二木佳奈多!
 気を入れ直し、直枝の質問に間髪入れず答えていく。

「なるほど。ありがと、佳奈多さん」
「…別に」

 時間にしてみれば数分とも経ってない。もっと経ってると思ったのに。
 じくじく。
 ……ああ、もう! だんだん、ぶんぶん、ドキドキとイライラで情緒が少し不安定になった私は、いつもならしないような乱暴な行動をしてしまった。

「か、佳奈多さん?」
「……何よ」

 それを案の定、見られたのは直枝。運が悪すぎる。

「機嫌悪そうだと思ってたんだけど、今の、何か関係ある?」
「別に…耳の中に水が溜まってて嫌な感じがするだけよ」

 言ってしまった。しかもすんなりと。葉留佳には苛立ちながらも言えなかった気恥ずかしい原因を。何故なのかしら。

「あー…たまにあるよね。取れないときは確かにイライラするよね」

 ホッとしたように呟く直枝に、私はさらに苛立つ。侮辱された感じがしたから。

「どうせ他人事でしょ。終わったならさっさと戻りなさい。本来ならいてもいい時間でもないのよ」
「あ、うん。わかったよ。また後でね」

 後で? 聞き返そうとする前に、直枝は既に退室していた。

「…濁さなすぎよ」

 もう少しくらい、いてもいいじゃない。

 

 

 コンコン。それから数分もしないうちにまた来客。
 直枝に帰られたことで、苛立ちはもはや最高潮に達していた。ここまで苛立ちが募るだなんて思わなかったわ。

「ごめんね、何度も」

 無言でドアを開けると、そこには戻ったはずの直枝がいた。後で、とはこういうことなの?
 呆けている私の腕を引っ張り、先ほどとは逆の立ち位置でベッドの前まで連れてこられる。

「佳奈多さん、横になって」
「へ…?」

 な、直枝はいきなり何を!? まさか何かしらの準備を済ませてきたってこと!?
 そ、そそそそりゃ、確かにわわわ私だって年頃の娘で、そういったことに興味がないわけじゃないし、直枝のことは男子の中じゃ…中の下くらいには思っているけど、だからってこんな簡単に身体を許す私じゃないわよ!
 直枝は勘違いしている。私の威厳を甘く見ている。そこまで軽い女じゃないのに。

「直枝、あなたね…!」
「ほら、スポイト持ってきたから、水が入っててイライラするんだよね。やってあげるから」
「え……?」

 怒り心頭な私に向けられた言葉は、そんな怒りがどこへいってしまったのか、そんな言葉。

「ネットで調べたんだけど、出てこない場合、逆にたくさん入れたほうが一気に出るらしいよ。だから借りてきたんだ。あ、借りてきたっていっても汚くないよ。何故か知らないけど厨房にあったのを借りてきたから」
「そ、そう…」

 そう返すだけで精一杯だった。
 早とちりした私の顔は真っ赤に染まっていることだろう。

「耳に水入れるとき、またゾクってするかもしれないけど、平気?」
「…そこまで子供じゃないわよ」

 顔を見られたくないから、背を向けて寝転がる。上に向けた耳がちょうどそっちの耳でよかった。

「はい、じゃあ入れるよー」
「……ひゃっ」

 チュンっ…じわじわ、と染み込んでいく。変な感覚。それに耐えられなくて、慌てて耳を下に向ける。
 ジュン、という音と共に、手のひらに出てきたのは少しぬるくなった水。今まで一時間近く私を苛立たせていたことが、こんな簡単に済んでしまった。

「ふぅ…」
「あ……」

 気が抜けたのか、今度は仰向けに倒れこむ。
 だけど、後頭部に感じる感触は、さっきのような柔らかいものじゃなくて、少しだけ堅い感じがしたもの。

「えっと…まあ、いっか」
「?」

 見上げると、直枝の顔がすぐ上にあった。
 ……状況を察するに、膝枕、されていることになる。
 瞬間沸騰も目じゃないくらい、私の顔は再度真っ赤になったことだろう。
 そんな私を見て、直枝は、

「もっと苛立ち、消してあげようか?」

 と耳元で囁いた。
 もちろん、私の答えは……。

 

 

 終われ。


 




    
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