「だーかーらー、なんともないんだってばー」

スポーツ飲料を飲みながら葉留佳は言った。
しかし、その声は弱々しく、顔色もどこか青白い。
どう見ても大丈夫そうではなかった。
グラウンドの木陰に横たわる葉留佳の額に濡れタオルを当てながら、理樹は溜め息混じりに口を開いた。

「日射病で倒れた人が、何を言いますか……」
「で、でもっ、ちょっと気を失っただけだし、全然やれ――」
「ダーメ。とにかく安静。本当は保健室に運びたいところなのに、葉留佳さんがここでいいって言うのをそうしてあげてるんだから、素直に言うこと聞く」
「うっ……はーい」

理樹に、いつになくきつい口調で咎められ、葉留佳は小さく竦み、その後渋々と言った様子で頷いた。
処暑に入りそろそろ秋めいてくるかと思われる時期であったが、まだまだ余炎は激しく、夏の匂いは色濃く残っていた。
この日は午後四時を回ってもなお陽は強く地を射していて、グラウンドの端に茂る草原に逃げ水が見える程、一段と暑かった。
そんな中、今日も今日とて放課後、無邪気にベースボールに興じていたリトルバスターズであったが、途中、急に葉留佳が倒れるという事態が発生した。
ライトを守っていた葉留佳がグラウンドでいきなり倒れたのは、すぐ周りが気づき木陰に運び込めたという意味で、不幸中の幸いであった。
何事かと皆慌てふためく中、マネージャーである美魚により、日射病と診断される。
倒れたとはいえ、その時から意識はあったし、別段深刻な症状が現れることはなかったので、安静と水分補給が急務とされた。
大事には至らず、皆はひとまずほっと安堵の息を漏らしたのだが、葉留佳が倒れたという状況下でのほほんと野球などできるわけがなく、恭介も「じゃぁ今日はここで上がるか」と言い始めたのだが、それを葉留佳はよしとしなかった。

私は大丈夫だから。
すぐに治るから。
だから、皆はいつも通り野球をやっていてほしいな。

苦しげに呼吸しながらも、真剣に紡がれたその言葉に、皆心配しながらも従うことにした。
理樹が付き添う、という条件の下で。

「いやー、タオルが気持ちいいですネ」

目笑しながら、葉留佳が呟いた。
時刻は五時になろうかというところで、とうとう西日は弱くなってきていた。
夕景にはまだ早かったが、暮れを感じさせる涼風が木をざざ、と揺らし、葉留佳の髪を撫でていく。

「あ、ペットボトル空になっちゃったね。まだあるけど、飲む?」
「ううん、いいよ。そんなに入らないもの」
「そっか」
「うん」

葉留佳の容態は大分落ち着いていた。
倒れた直後は顔色が悪く、呼吸も激しく、体を起こすことすらままならなかったが、今では木に背を預けて座れる程に回復していた。

「皆、楽しそうですネ」

グラウンドの方に顔を向けていた葉留佳が言う。

「まだダメだよ?」
「わかってるよ。ただ、そう思っただけ」

理樹の心配がやや過剰に思え、苦笑しながら葉留佳は小さく付け加えた。
「なら、いいけど」と溜め息を吐いた理樹も、グラウンドの方へと目を向ける。
野球をする皆の声が響いていた。
理樹の代わりに真人がバッターを努め、守備の穴を恭介が率先して埋めていく。
クドリャフカと小毬が外野を走り回り、唯湖と謙吾が内野を守備し、鈴がいつも通りにマウンドで振りかぶる。
グラウンド内を動く彼らは、常に笑顔だ。
葉留佳の頼みだからというのもあるかもしれないが、きっと彼らは今はそれすらも忘れて、極々自然に野球を楽しんでいるのだろう。

「ねぇ、理樹くん」
「ん?」
「どうして、理樹くんは私に付き添ったのかな?」

彼らを見やりながら顔を綻ばせていた葉留佳が、そう言った。

「何で、って」
「だって、みおちんがいるじゃん。嬉しいけど、理樹くんがわざわざ診てる必要って、なかったよね?」

美魚は、「少し外します」と言ったきり、グラウンドには戻っていなかった。
それがどういう用事だったのかは誰もわからなかったが、葉留佳は美魚のその行動が『気を利かせた』ものであるようにしか思えなかった。
しかしながら、葉留佳は理樹と恋仲なわけではない。
恋慕があることは間違いなかったが。
となれば、理樹が自身の付き添いに名乗りを上げたことに、少なからずの淡い期待と疑問を抱いてしまうことも、無理からぬことだった。

「ねぇ、どうして?」

笑顔で、しかし心中は些か真剣に、葉留佳は問う。
それに対し、暫しうーんうーんと唸った後、理樹はぽりぽりと頭を掻く。

「ごめん、わかんない」
「へっ?」
「何というか、葉留佳さんを放っておけなかったというか、誰か付き添わなきゃないって話になった時に、気づいたら僕が、て言ってて……」
「それは」
「え?」
「それは、どうして?」

さらに奥の、理樹が自分に対してどういう感情を抱いているのかを探ろうと、葉留佳は踏み込んだ。
わからないと言ったのにまた疑問を投げかけられ、一瞬口を噤んだ理樹だったが、再び静思し。

「それは、きっと――」
「きっと?」
「……いや、何でもない」
「……」

「また、後で言うよ」と言われ、葉留佳は「そっか」と返すほかなかった。
沈黙が二人の間を満たしていく。
日はとうとう山際に沈み始め、入り相となっていた。
和風がグラウンドを横切っていき、端々に植えられた木々についた葉を揺らしていく。
じんわりとした残熱がまだ肌に感じられたが、風のおかげもあり、昼間よりも確実に涼気が吹き込んできていた。

「お待たせしました」

会話もなく、ぼんやりと皆の姿を眺めていた二人のところへ、美魚がやってきた。

「みおちん」
「どこ行ってたの?」
「いえ、日射病と判断しましたが、症状を詳しく知らなかったので、少しばかり調べてきました」
「そうだったんだ」

淡々と言う美魚に、葉留佳は少しばかりの落胆を感じた。
結果としては二人きりになれたという事に変わりはないのだが、あの状況が偶然の賜物であったのだと考え直した。
美魚なら自分の気持ちにも感づいていると考えていた葉留佳にとっては、『友人の気遣い』と思っていたものが実はそうではなかったことが、残念に感じられた。

「吐き気はありますか?」
「ううん」
「足が痙攣するとか、そういうことは?」
「全然」
「顔色も悪くない……大丈夫ですね」

「素人の検診ですので、できれば保険医か医者に掛かることをおすすめしますが」と付け加え、美魚は葉留佳の身体チェックを終えた。

「よーしっ、今日はこれで上がるぞ!」

その時、グラウンドの方で恭介のそんな、一際大きな声が三人の耳に入った。
言うや否や、小毬とクドリャフカが走り寄ってくるのが見える。
なんだかんだ言っても、葉留佳の容態が気になって仕方がなかったのだろう。
そして、恭介らも片付けは後回しにし、葉留佳達の下へとやってきていた。

「皆、来てるね」
「よしっ、行こっ!」

「はるちんの元気な姿を見せちゃいますヨ!」と陽気に声を上げて立ち上がろうとした時、すっ、と葉留佳の前に手が差し伸べられた。
腕をなぞる様に顔を上げていくと、そこには美魚の姿があった。

「どうぞ」
「あっ、うん。ありがと、みおちん」

少し面食らった葉留佳であったがすぐに気を取り直し、美魚の手を掴む。
そうして立ち上がり、勢いに流れ鼻を突き合わせるくらいに相対した時、美魚が葉留佳の耳元に顔を寄せ、呟いた。

「進展は、ありましたか?」

葉留佳が驚いた様に美魚の顔を見る。
美魚は、ただただ優しく笑っていた。
――そっか、やっぱり……。
じわり、じわりと葉留佳の心中に喜気が染みていく。

「何の事だか、わかんないですネ」

「みおちん何言ってるんですかネー」と歌うように言いながら、葉留佳は気持ちを抑えきれず、解顔した。
しらばくれる葉留佳に、美魚は「そうですか」とだけ返し、くすりと笑う。
少し離れた所にいた理樹は、楽しげに微笑み合う二人に、クエスチョンマークを一つ頭上に浮かべた。

「はるちゃん、だいじょうぶ〜?」
「葉留佳さんっ、大丈夫ですかっ」

皆が葉留佳の下へやってくる。
心配する皆を前に、葉留佳は普段通りの口ぶりを発揮し、大いに安心させ、呆れさせた。

「だから言ったろ? 三枝なんだから気にする必要ねぇって」
「真人くんひっどーいっ! か弱い少女が暑さに倒れたってのにー!」
「とか言いながら、グラウンドでは『三枝のヤロー、大丈夫なのか?』としきりに漏らしていた真人少年なのであった」
「ばっ、ん、んなわけねぇだろっ!! 何言ってんだよ来ヶ谷の姉御!」
「なーんだ、真人くん心配してくれたんだ。ありがと!」
「ちげぇよっ、そうじゃねぇっつってんだろ!」 

葉留佳らのいた木の下が、賑やかになっていた。
景風は相変わらず木々を、そしてリトルバスターズの面々を優しく包む様に吹いていく。
夕掛け始めた空は、徐々に反照となっていく。
――信じても、いいんだよね?
葉留佳は、理樹の言った言葉を思い返していた。
理樹の気持ちに偽りはなく、そして自分の期待するものであろうと葉留佳は信じた。
――もし、あまりに遅くなるようだったら、私から先に言っちゃうよ?
恭介らと談笑する理樹に目を向け、葉留佳は舌を出して笑った。


理樹があの続きを言うこととなったのはもう少し経ってからのことだったが、それはまた、別のお話である――。

inserted by FC2 system