その報せが入ってきたのは、昨日のことだった。布団に入って、枕元に置いた目覚まし時計のアラームがきちんとセットされているかを確認していた、日付がそろそろ変わるかどうか、という夜も更けた時だった。
 当然と言えば当然なのだけれども、今まで連絡の一つもなかったというのに、突然「明日帰ります!」とだけ書かれたメールが送られてきた時には呆れたものだったが、それでも「あの子らしい」と思わず頬が緩んでしまう自分がいた。むしろちゃんと連絡してきてくれたことすら嬉しいなどと思ってしまっていたのだから、バカ親と言われても反論できないかもしれない。けれども、それ程までに待ち焦がれていたのだ。何も出来ずに、ようやく打ち解けあえたと思えば手元を離れていってしまった娘達に、やっと親として接することができる時が来たのだから。
 帰ってきたら何をしてあげよう。まずは温かい料理を振舞ってあげよう。いや、それよりも先に笑顔で「おかえり」と言ってあげるのが先か。あぁ、自分はちゃんと笑って言えるだろうか――ふつふつと湧き上がってくる歓喜と不安を持て余しながら、明くる日の事で頭が一杯になった。
 その後、すぐにもう一人の娘から送られてきた、「昼には帰ります」と書かれたメールを見て、自分の抜けっぷりにも呆れてしまった。朝昼晩気合いを入れてご飯を作ろうとでもしていたのか、私は。一人豪勢な食卓にありつけというのか。お父さんにはタッパーに詰めて残しておいてあげるのか。大事な事も忘れて意識がすっかり別方向へと飛んでいっていた自分に、年甲斐もなく布団の中にくるまって気恥ずかしさを紛らわせようとしてみたが無駄に等しく、娘達との再会に胸が躍るのも止まらず、寝付くのに相当の時間がかかった。
 翌朝、娘達の帰宅を告げた時のお父さんの残念そうな顔が印象的だった。「休み取るかな」などと言い出し始めるくらいだったのだから、余程出迎えたかったのだろう。結局渋々と出勤していったのだけれども、早退してくるのではと思わされるほどに、後ろ髪引かれる様子だった。本当、もう少し早く連絡してほしかったけれど、あの子達が元気に帰ってきてくれるのならば、出迎えできない事など然したる問題ではないのだと思う。たまたま今日が休みだった自分だからそんな事が言えるのかもしれないけれど。
 お父さんを見送った後、私はスーパーへと駆け込んで食材を買い込んだ。無駄に買いすぎたかもしれないけれど、その分は晩御飯に使えばいいと思った。夜にはお父さんもいるし、もしかしたら、もっと人が増えるかもしれないから。
 
 粗方準備を済ませると、暇な時間がやってきた。あとは、帰ってくるのを待つだけだ。鍋の中の味噌汁をかき混ぜながら、娘達の帰りを待った。
 することがなくなり、キッチンに突っ立っていると、リビングが驚く程静かな事に気づいた。出窓から差し込む日差しが穏やかだが、コトコトと煮える味噌汁の音だけで、昼とは思えない程に閑寂としている。それが何十分か後には、嘘の様に騒がしくなるのだろう。無邪気な妹と、しっかり者の姉と、もしかしたら、二人の大切な男の子によって。
 本当に?
 本当に、そんな光景を目にすることが出来るの?
 昨晩とは違う不安が湧き上がった。この家で、娘達の笑顔を見る事が出来るのだろうか。自分という存在がありながら、それは可能なのだろうか。
 何をしてあげられたというのか。路頭に迷っていたところを娘に助けられ、その娘とは暮らすことは出来ず、もう一人の娘と暮らし始めても空虚な家族ごっこを演じただけ。親などという存在とは程遠く、むしろ余計な重荷を背負わせてしまった。出来たことと言えば、逃げる算段を立てただけ。後は何もない。そんな自分達に、娘が笑いかけてくれるものだろうか。きっとご飯を食べてくれなくて、「この家では暮らしたくない」と言われて、もう二度と、私達の前に姿を見せてくれないのだろう。十二時間の、あっという間の夢物語に終わってしまうのだろう。
 それでも、自分にはそれしか出来ることがない。ずっと親を放棄してきた自分達には全然わからないけれども、繋がりを持つために、私は『家族』というものを想像して、その様な出迎えをする。覚悟という名の諦めで幾度と捨ててしまったその繋がりを、もう一度作るための第一歩を。
 どっちに転んだっていい。蔑まれたなら今まで通りなだけだし、笑ってくれるのならば本望だ。娘達が元気でいることを喜ぶ気持ちさえ忘れなければいい。
「だから、僕は遠慮するって!」
「もう、往生際が悪いよ、理樹くん!」
「私達と半年も同居しておいて今さら他人面しようとか、考えが甘いのよ、直枝」
 玄関先からそんな賑やかな声が聞こえてきて、思考の渦から慌てて抜け出した。帰ってきたのだとすぐにわかった。煮立つ鍋の事などお構い無しに、玄関へと走った。
 半開きのドアの向こうで、二人の娘が男の子の腕を引っ張っていた。足音に気づいたのか、男の子がこちらを向いて、あ、と声を上げた。するとその瞬間を見逃さないと言わんばかりに、二人が中へと押し込んだ。
 三人が横に並ぶ。見覚えのない服を着ている娘達。向こうで買ったのだろうか、とてもよく似合っている。あぁ、そうじゃない。そんなことを考えている場合じゃない。先に言うことがあるはずだ。
 逡巡していると、男の子が気恥ずかしそうに、そして娘達が満面の笑みを浮かべて言った。
「ただいま戻りました」
「ただいま」
「ただいまですヨ!……って、お母さん!?」
 我慢できなかった。あっという間に視界が滲んでいって、三人の姿がぼやけていった。
 ごめんなさい、お母さん、やっぱり言えなかった。
 「おかえり」とも「何でもないのよ」とも言えなくて、ぼろぼろと溢れてくる涙を拭う事しか出来なかった。色々と込み上げてきすぎて、気持ちの整理もつけれず、ついに蹲ってしまった。
「……母さん」
「きっと、はるちんのあまりの成長ぶりに感激したんですネ」
「はいはい、セーチョーセーチョー……母さん大丈夫ですか?」
 佳奈多がハンカチを握らせてくれた。ありがとうと言いたくとも声が出ず、ハンカチを持ったまま、手で顔を覆った。
「……お、何かおいしそうな匂い! お母さんグッドタイミングですネ、私、ちょうどお腹ペコペコなのですヨ!」
「母さん、上がってもいいかしら? ほら、逃げようとしないで直枝も」
「えぇっ。というか、おばさん本当にだいじょうぶですか?」
 直枝くんの心配そうな声を近くで耳にし、私はこくこくと頷くことしかできなかった。
 リビングはおろか、玄関先から賑やかになる家。娘達の笑い声。願ってやまなかった光景がすぐ傍にあるというのに、私の目には何も見えない。どうしてこんなにも不甲斐ないのだろう。泣きじゃくることしか出来ないなんて、先程決意を胸に秘めた自分はどこへ行ってしまったのだろう。
 家に上がったらしい葉留佳が、私を後ろから抱きしめて言った。
「"終わりは始まり"なんだよ、お母さん」
 当分、私が「おかえり」を言うことは、できそうになかった。




  









    
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